シンガポールの戦争史跡
シンガポールに行けば、マリーナベイサンズやチャイナタウンなどの観光地には誰もが行くと思います。
ですので、普段観光客が行かないような場所、いやもしかしたら在住者ですら行かないような場所かもしれませんが、歴史を知るうえでは大切だと思う少しディープな場所を記載しておこうと思います。
シンガポールの戦争に関わる場所です。
場所が分かりにくいものもあるので、地図もブログの下部のほうに記載しておきますのでどうぞ。
目次【本記事の内容】
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- 1-1.日本人墓地(Japanese Cemetery Park)
- 1-2.Former Ford Factory
- 1-3.Kent Ridge Park
- 1-4.Esplanade Park
- 1-5.Civilian War Memorial
- 1-6.シンガポール日本人会
- 1-7.Bukit Batok Memorial
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- 2.モデルコース
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- 3.まとめ
シンガポールの戦争関連場所
日本人墓地(Japanese Cemetery Park)
910ものお墓がある、東南アジア最大の日本人墓地。シンガポール政府によって公式に認められた墓地公園。
朝などは地域の住民が犬と散歩をする場所でもある。
からゆきさん、日本市民、兵士、チャンギ刑務所で有罪判決を受け処刑された戦争犯罪人などが祭られている。日本人売春宿のオーナーたちがそれぞれの土地やゴム園から土地を出し合い、シンガポールの地で亡くなった若い日本人女性の墓地にしたのが始まり。1891年に、正式に英国政府から墓地としての許可を得る。日本軍がシンガポールを統治していた時には、戦いで亡くなった市民や兵士を埋めていた。日本軍が降伏後は、英国に墓地を取り上げられるが、1969年にシンガポール政府は日本に墓地を譲渡した。
園内ではポケモンGOで遊ぶな!と記載がありますね。。
二葉亭四迷の墓。
Former Ford Factory
1942年2月15日、英国軍が日本軍の山下将軍に対して降伏した場所。2006年にシンガポール国立の祈念碑に指定されたあと、博物館に改装された。この工場はフォードマレーシアとして1941年に建築された。この工場はフォードにとって東南アジアで最初の車の工場であった。しかし日本軍がシンガポールを侵略した際に、この工場は英国空軍によって飛行機を造る工場に変えられた。英国軍敗退後、工場は大日本帝国軍に接収され、軍本部( Butai )として利用された。また日産自動車などの zaibatsu (財閥)のトラックを造る工場などとしても利用された。戦争終了後はフォードが1980年まで自動車生産工場として利用した。
工場が利用されなくなると、旧日本軍の幽霊が出るなどの噂が広まった。
日本軍がシンガポールを統治後、シンガポールは昭南島と呼ばれた。
シンガポールの負の時代です。
Kent Ridge Park
シンガポール国立大学とシンガポール科学公園の間にある公園。戦時中は、この丘で日本侵略軍とマレーシア軍隊(シンガポールは昔はマレーシアの一部だった)の間での激しい戦いが行われた場所。1942年2月12日から15日までのこの戦闘を、Battle of Pasir Panjang という。この戦いの結果が、英国軍が降伏を決めたといわれる。牟田口廉也部隊が弾薬を全て使い果たしたマレーシア軍隊を虐殺した。昔はこの丘で小麦やゴム、パイナップルなどが栽培されたが、日本軍統治時代に全て捨てられ破壊された。
この結果、日本軍がアレキサンドリア地区にまで入ることができるようになり、病院で倒れていた英国軍兵士が白旗を揚げていたにもかかわらず虐殺するという Alexandra Hospital massacre が起きることになる。兵士以外に、医師や看護師も殺されている。
現在では、Kent Ridge Parkは静かな公園として、市民の憩いの場になっている。
Esplanade Park
古く歴史のある海浜公園。この公園内には、いくつかの戦争に関する祈念碑がある。
The Cenotaph
シンガポールで生まれ、シンガポールの為に戦ったた124名の英国人兵士への祈念碑。この祈念碑に関しては、大日本帝国軍はあまり関係は無い。
The Former Indian National Army Monument (印度国民军纪念碑)
インドからの名も無き兵士たちの為の祈念碑。日本統治中に建てられた。大日本帝国に関する祈念碑ではない。大日本帝国とインド国軍は共通の敵があった。それは英国軍。日本軍にとっては敵、インド国軍にとっては独立を阻む宗主国であった。インド国軍は、英国からのインドの独立を獲得するという目標の為に、大日本帝国軍によって後押しされていた。
この祈念碑は、インド国軍のチャンドラボーズによって提案された。
Lim Bo Seng Memorial
この、リム・ボー・セン祈念碑は、1954年に建てられた。シンガポールの独立の為に捧げた国民的英雄の碑。中国生まれのリムは、16歳の時に学業の為にシンガポールに来る。父親の事業を受け継ぎ、ビスケットなどの事業を成功させ、シンガポールの中国コミュニティの中で大きな力を持つようになる。日中戦争勃発時には、リムはシンガポールの仲間と共に、反日活動を行う。日本産商品の不買、中国への金銭的援助などである。マレーシアのトレンガヌ州で日本軍が所有するスズの採掘工場のストライキに参加し名を上げる。1942年、リムはスマトラ島へ行き、同じ中国系リーダーと共に反日本体制の軍隊を作る。活動のさなか、憲兵隊に捕まる。一切の情報を吐かないなか、病気で亡くなる。遺体はマレーシアのぺラック州に埋葬される。戦後、遺体はシンガポールに戻され国葬を受ける。
リムは4人の子供がいたが、それらの孫たちはシンガポール内でも特別な立場にある。
シンガポールの公共交通機関会社 SMRT の社長、またはシンガポール国軍の将軍などになっている様子。
Civilian War Memorial
日本占领时期死难人民纪念碑。日本統治時代に、大日本帝国軍の憲兵隊によって25000人から50000人の中国系がSook Ching、すなわち華僑粛清された祈念碑。リー・クアン・ユーによって建てられた。4本の棒が立っているように見えるのは、シンガポールの主要な4人種、中国系、ユーラシア系、インド系、マレー系を表す。
憲兵隊はターゲットとして、下記を挙げていた。
- 中国系
- 中国系の裕福な慈善家
- 海南人の共産主義者
- 英国へのシンパシーがある者
- 武器を持っている者
憲兵隊によるスクリーニングが行われ、合格者には【検査済み】という紙を渡したり、体にスタンプを押したりした。
不合格者は海岸などの殺害現場に送られた。
シンガポール日本人会
ここは戦争とは関係は無いのですが、日本人墓地の募金箱があるのでとりあえず記載しておく。まあどこの国へ行こうとも、日本人のパスポートがあれば、日本人会には誰でも問題なく入れると思うので、おすすめです。現地の日本人の暮らしが分かります。
Bukit Batok Memorial
フォード工場のすぐ近くにある祈念碑。大日本帝国軍は、戦争で亡くなった兵士の為に神道の神社(昭南神社)を作りたかった。
戦後、昭南忠靈塔は戻ってきた連合軍によって暴騰されることの無いように、日本軍によって破壊された。
モデルコース
それぞれ離れているので、バスを使うかタクシーがお勧め。とても歩くのは無理。
まとめ
シンガポールの戦争に関する場所として、
- 日本人墓地(Japanese Cemetery Park)
- Former Ford Factory
- Kent Ridge Park
- Esplanade Park
- Civilian War Memorial
- シンガポール日本人会
- Bukit Batok Memorial
を挙げてみました。
パパッと見るようにすれば、一日で全部回れる・・かもしれません。シンガポールは暑いので、暑い中で屋外にある祈念碑をじっくり読むとかはなかなか難しい気もします。
マリーナベイサンズやジュエルだけがシンガポールではない、、そう気付く人もいれば、世の中もまた変わるかもしれませんね。
ではでは。