1942年3月18日に日本軍がマレーシアのTitiという小さな村で起こした大虐殺事件(慰霊碑地図付)

 
 

まずは、下記を一度読んでほしい。

 
 
 

マレーシアに住み始めてから8年程度経ち、多くの場所を訪れたが、どこにあるのかが分からない場所が1つあった。

昔、日本がマレーシアを統治していた頃、日本軍が一つの村の村人達を全員殺害し、証拠隠滅のために村中に火をつけた……」という話を聞いたことがあったのだが、本当かどうかも分からなかったし、その場所自体の情報も少なく、長い間分からなかった。

特に東南アジアではこういう話は多い。インターネットで探して見つかるものもあるし、ローカルの方から、このあたりで昔日本軍が多くの人を殺害したんだと突然言われることもある。

旅行先に日本軍関連の史跡がある場合は、個人的にもよく足を運んだ。インドネシアやフィリピンもそうだが、マレーシア国内にも日本軍関連の史跡は多い。

 
 

今回、その村の場所がわかった。

首都クアラルンプールから70km離れたところにある、Titi(中国語では知知)だ。

 
 

香港の英字新聞 South China Morning Post の記事を読んだことで判明した。下記引用。

 

※South China Morning Postの記事は、パソコン上のブラウザで開くと有料会員以外は先が読めないが、実は会員でなくてもスマートフォンのブラウザで開く際には先が読めることが多い

 
 

On March 18, 1942, the Japanese army rounded up 1,474 men, women and children in Titi on the pretext of conducting identity checks. The residents were later stabbed to death with bayonets.

Chu Hew Yin, an 82-year-old local historian who has published books about Titi, said he and his immediate family went to stay with relatives elsewhere as he had a fever, and hence only narrowly escaped the massacre. However, upon returning, they were greeted by the gruesome sight and stench of rotting bodies – several members of his mother’s family had been killed. “The nearby river had turned a dark red while most of the village had been razed to the ground,” said Chu, who added the massacre was aimed at punishing ethnic Chinese for their broad overseas opposition to imperial Japanese rule in China. Similar tragedies had occurred in Chinese communities across Malaya, he said.

The late Siow Meow Yan, who spoke to this writer in January 2020, said the jungle around Titi was also a strategic meeting point of the borders of three Malaysian states: Selangor, Pahang and Negeri Sembilan. “This made the region ideal as a hideout for pro-Communist forces,” the former president of the Association of Historical Artifacts Research in Titi said, adding that those suspected of being anti-Japanese were either killed or tortured as prisoners. The Jelebu area in which Titi is located was said to be the main supply centre for the Malayan People’s Anti-Japanese Army. “History should not be forgotten, especially the devastation of war,” Chu said.

https://www.scmp.com/week-asia/people/article/3192718/sleepy-malaysian-town-titi-hopes-buzz-domestic-visitors-will
 
 

記事の内容は、コロナパンデミック終了後、小さな村にどうやって観光客に来てもらうかを考えている……というものだが、虐殺の歴史も記載されていた。以下に要約を訳す。

 
 

この街には、Kwong Fook Templeという古くからあるお寺があり、ここに観光に来る人が多い。その他は、カトリック教会や日本軍虐殺による犠牲者のためのモニュメントだ。Titiはマレー語で「橋」を意味する。パイナップル栽培が盛んな土地であり、マレーシアでは最高の品質とされる。1942年3月18日、日本軍は身元検査を行うという口実でTitiの男女1,474名を一斉検挙した。 その後、住民は銃剣で刺殺された。当時チュー・ヒュー・インさんは、熱が出たため肉親とともに別の親戚の家に滞在し、九死に一生を得て虐殺を免れたと語った。 しかし、戻ってくると、彼らは腐乱死体の凄惨な光景と異臭に遭遇した。母親の家族の何人かが殺されていたのだ。 「近くの川は暗赤色に変わり、村の大部分は破壊された」とチュー氏は述べ、この虐殺は日本帝国の中国支配に海外で広く反対した華人を罰することが目的だったと付け加えた。 同氏によると、マレーシア各地の中国人コミュニティでも同様の悲劇が起きたという。TitiがあるJelebu地区は、マラヤ人民抗日軍(Malayan People’s Anti-Japanese Army:MPAJA)の主要補給地だったと言われている。 「歴史、特に戦争の惨状を忘れてはなりません」とチュー氏は語った。


 
 

悲劇が起こった正確な場所は、余朗朗 Yu Lang Langという村だが、この村はGoogle Mapでは出てこない。しかし、Titiの地域内にはなる。住んでいるクアラルンプールからも近い。早速向かってみることとした。

 
 

Titi World War 2 Massacre Memorial

 

地図を見る限りクアラルンプールから直接行ける道もありそうだが、Google Mapで確認していると、どうも道が寸断されているようで、一度、州都Serembanに立ち寄ってからいくことになるようだ。Seremban – Jelebuの山道を通って、Titiの村に入る。その後、10分くらい北に向かうと、慰霊碑がある Titi Chinese Cemetary 知知中华新义山 に着く。

 

墓地の中に入ると、すぐに茶色い塔が見えてくる

余朗朗蒙难华族同胞纪念碑

正確には分からないが、1942年にこの周辺に余朗朗Yu Lang Langという村があり、日本軍によって1474名が一夜にして虐殺されたのだろう。

この慰霊碑は少し床が持ち上がっている。おそらく亡くなられた方の骨などを慰霊碑の下部に埋葬しているものと思われる。

日本人は漢字が読めますので、書いてあることの意味はなんとなく分かりますね。

日本語の説明文

中国語の説明文

英語の説明文

マレー語の説明文

本当にこの場所があったとは思わなかった。

 

この日本語の説明文は、何度も読んだ。あまりにも恐ろしい内容で。こんな事ができる人間がいるのだと。そしてそれが昔の日本人だと。

 
 

Titiの村を少し探索する。南側のSerembanから訪れる場合は、村の入口前にSt. Angustine Catholic Churchが見えてくる。このカトリック教会は100年以上前のものらしい

Titiの看板

APACABA COFFEEという少しおしゃれなコーヒー屋が見えてきました。このあたりは田舎なので、こういうモダンなカフェがあるのは珍しい。Apa Khabarはマレー語の挨拶だ。挨拶の言葉にちなんだ名前だと思うが、とても面白い案だ。

こういう道を運転して、村に向かっていきます

知知村のゲート。とはいえ、ここは新しい村のように見えます。以前のYu Lang Lang村の村民はほぼ全て日本軍に虐殺されたので、過去の村とはおそらく関係はなく、戦後にここに移り住んできた人たちが住まれていると思われます

小さな村は選挙一色。赤い旗がなびきます。この小さい村は特に中国色が強く見えます。基本的にマレーシアは、都心は赤いリベラル勢力が強いのですが、郊外になると青や緑の保守派が強くなります。しかしここは郊外の小さな中華系村。特に熱気を感じます。余談ですが、このTitiの周辺は、戦後、マレー系住民との対立に発展したマレーシア共産党勢力の拠点だったと思われます。現在では活動は行われていませんが、元々から中華押しは強いエリアなのでしょう。

中華寺 God Well Chinese Temple 上帝宫 を発見

かわいいウサギのモニュメント。昔、悲劇があった村として知られているが、ウサギはかわいい。

この寺は少し階段を上がる。上がったあとに、静かな村を見下ろす。

この村の壁画は有名なようだ。

 
 

調べたところ、このNegeri Sembilan州には、日本統治中の史跡や慰霊碑が多いことが分かった。近くに数点、同じような慰霊碑があることが分かったため、立ち寄ってみることとした。次は、Kuala Pilahという小さな町周辺にある慰霊碑を訪れることとした。

 
 

庇朥华人义山 Kuala Pilah Chinese Cemetery War Memorial

 

Google mapで検索すると、Kuala Pilahという小さな町の中に慰霊碑があるように表示されるが、実際は上記の場所に存在する。下記のような道を延々と進む。

庇朥华人义山 Chinese Cemetery に到着

港尾村と記載がある。Titiは昔は、知知港と呼ばれていた時期もあるようなので、もしかすると、Titiのことを示唆しているのかもしれない。とはいえ、ここは情報も少なく、中に入れないようになっているため、遠くて字も読めない。草も生い茂っており、あまりメンテナンスはされていないように見える。

実際には虐殺はTiti以外にも様々なところで行われていたため、違う事件を示しているのかもしれない。

 

小さな町だが、このKuala Pilahで滞在するのも良い。

ここは中華系が多い町なのだろう。ローカル住民が押し寄せているコーヒー屋へ入ってみた。

なんと下記のパンとお茶でRM2。やっぱり地方は安いですね

 
 

次は、Sendayanというこの州の州都のSerembanに近い場所にある慰霊碑に訪れることとした

 
 

World War 2 Massacre victims Memorial

Sendayan Chinese Cemetery 申那英华人义山 へ向かう。

 
 
 
 

上記の墓地と同じ位置なのだが、下記のGoogle Mapのナビで移動すると、道なき道を走らされることとなってしまった。そのため、素直に上記の Sendayan Chinese Cemetery 申那英华人义山 の正面玄関から入り、事務所で聞いてみる方が良い。

Google mapの道案内で表示される道は封鎖されていたので、こちらの事務所で聞いてみた。今までの慰霊碑は全て華人墓地内にあった。そのため、ここでもその可能性が高いと感じた。

事務所に入って、受付で暇そうに座っていたおじさんに、『この慰霊碑はここにあるか?』と確認すると、最初、分からないと言われた。しかし、その方から別の方にも聞いてもらうと、この墓地内にあるとのこと。

『どうやってそこに行けばいいですか?』と聞くと

『私が車で送りましょう』と言われる。

『日本人?』と聞かれたので、『日本人です』と答える

嫌な顔をされてもおかしくない立場だと思っていたが、全くそんな感じはなく、むしろわざわざ来ていただいてどうもみたいな感じだった。

 

おじさんの車 Honda Cityに乗りながら、いろいろ話をしていた。墓地の入り口から、慰霊碑は数分で着いた。

こちらの慰霊碑は特定の場所を示すわけではなく、州内全域のあらゆるところで日本軍は虐殺をしていたので、それら全てを慰霊するという意味の慰霊碑のようだ。

日本人なら漢字が読めるから意味はわかるだろう。

  • 1941年12月8日 日本軍がマレー半島のコタバルに上陸
  • 1942年1月13日 日本軍がヌグリ・スンビラン州の首都スレンバンを占領
  • 1945年8月15日 日本がポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏
 

下記は寄付をした者の名簿だ。

見えにくいが、右下の方に、日本からの寄付も記載がある。髙嶋伸欣氏という名前がある。おそらく『マレーシア (旅行ガイドにないアジアを歩く)』 の著者の髙嶋伸欣氏だと思われる。

 

なんと、広島県教職員組合も寄付をしている

 

いろんな話を聞いた。

 
  • おじさんはこの墓地を管理している会社で働いて3年程度だが、ここにこのような慰霊碑があることは知らなかった(歴史に興味があれば、いの一番に知りそうだが、意外とこういうケースも有るようだ)
  • この墓地は公的墓地で、丁寧に整備されている。たまに政治家が来たりする。ただし来るのは華人系政治家だけであり、マレー系は来ない
  • 他の地域でも、たくさんの華人が日本軍に殺されている。しかし、Titiはあまりにも虐殺が酷すぎたため、よく知られている。
  • 日本人がここの慰霊碑を見に来たというのはこの数年では初めてだが、Titiの慰霊碑には日本人がときどき来ているらしい(Titiに関しては、意外と日本人にも知られており、実際に訪問される方もおられるようだ)
  • ローカルもこの慰霊碑にそんなに来る訳では無い。しかし、先祖や家族を日本軍に殺された方は慰霊に来られるらしい
 
 

丁寧に案内をしていただいたので、深々と頭を下げて、この場を後にした。

 
 

まとめ

 
 
 
 

ボルネオ島出身のローカルの中華系友人と話をしていた。

 
 

俺『There seems to be built some World War 2 Monuments that Japanese military has done bad thing in Negeri Sembilan states. (マレーシアのヌグリ・スンビラン州には、日本軍がいろいろ悪いことをした慰霊碑がいくつか建っているらしい)』

友人『I think so (私もそう思います)』

俺『I think so? What do you mean? I thinks so means You have ever seen? or You have heard about that before?(は?私もそう思います?どういう意味なのそれ?あなたが以前見たことがあるということ?もしくはあるということを聞いたことがあると?)』

 

友人はその続きは何も話さなかったが、おそらく、日本軍が残虐な行為を行っていたことは華人の中では当たり前に知れ渡っているので、だからこそ慰霊碑がたくさんあってもおかしくはないという意味なのだろうと推測する。

 
 

同じような質問を、マレー系友人にもしてみたことがあったが、彼は本当に何も知らなかった。

日本軍が華人系を特に抑圧していたのは事実だ。とはいえ、マレー系に対しては被害がゼロとは思わないが、あまりにも数が少ないため、虐殺などの事実があまり知られていない……などのことはあるかもしれない。

 
 

個人的意見を述べると、過去に日本人が行った虐殺に対して、今生きている我々が謝罪をする必要はないが、許されてきていたかもしれない我々日本人が、仮にこの事実を存じていない場合はあまりにも能天気だと思うし、ここに住んでいる者としてのローカルに対する敬意に欠けるのではないかと思う。

 

「過去に日本人がこんなことをしたのよ」とローカルに言われた後に、「ええっ、私全然知らなかった~」などと答えたら、ローカルの人は心の底ではその人のことをもう信用しないかもしれないし、日本国内でどのような学校教育が行われているかどうかを訝しく思うかもしれない。

 

中学生の社会科目・高校の歴史科目は、日本の近代史をほとんど学ばない。縄文時代よりも近代史の方が遥かに重要だが、なぜか日本の学校教育では、そこを省く。

 

人は忘れていく生き物なのかもしれない。マレーシアでは、華人は忘れないが、他の民族は忘れている人もいるかもしれない。しかし、Sendayan Chinese Cemetery 申那英华人义山 で出会った60代くらいのおっちゃんの話を聞いていると、少し薄れているようには思えた。そう考えると、中国の南京のように誰の目にもとまるような大きな博物館、例えば 侵華日軍南京大屠殺遭難同胞紀念館 を残すのは非常に賢明に思える。

 

Titiであれば、クアラルンプールからそう遠い距離でもなく、かつアクセスもよい。こういった史跡はアクセスが悪く、ナビも頼りにならないことも多い。人気のない山の中の獣道を歩いてようやく辿り着くような史跡もあるが、Titiのこの慰霊碑に関してはGoogle Mapに沿っていけば迷うこともなく、車で慰霊碑のすぐ側までたどり着くこともできる。

 

そのため、マレーシアで暮らしている人は、Titiくらいは行ってみても良いように思える。おそらくこのヌグリ・スンビラン州には、これ以外にももっと数多くの慰霊碑があるが、それらの箇所に関しては、時間があったら立ち寄るくらいでもよいかもしれない。

 

またクアラルンプール中心地にあるKwong Tong Cemetery(吉隆坡广东义山)内にも、日本軍が日本統治時代に多くの人を殺害したことを示す慰霊碑がある。都心から近いので、寄ってみるのも良いかも。しかし、ここはきれいでアクセスもしやすいのだが、野良犬が多かったので、少し怖かった。

 

毎年8月15日には犠牲者を追悼するためのセレモニーが行われているようだ

 
 

さて、歴史を振り返ってみたい。

アメリカによって原爆が広島と長崎に落とされたことで日本が降伏を決断したというのは間違いないだろう。

原爆により広島では約14万人が亡くなったとされており、これも悲劇として記憶されているが、これにより日本が統治していた国での日本軍による虐殺の悲劇がついに終わったとも言える。

見る側によって、気持ちは変わる。

戦争を行うことで、誰にとって、何のメリットがあったのかがよく分からない。戦争によって利益を得る人間の数は、戦争によって悲惨な目に遭う人間の数に比べたらごくごく僅かなので、結果論から考えても、戦争を行うこと自体が最初から無益なのだと思う。

近年、極東の島国では、「安全保障」を理由に戦争を行う方向に向かっているが、「国を守るために戦う!!」と勇ましく語る人間を信用しない方がいい。

 

今年も8月6日、9日、15日が近づいてきた。

国が違えば、人々がこれらの日に思うことは全く違う。

なぜか日本では公開されないようだが、今ちょうど、世界で初めて原爆を開発したロバート・オッペンハイマーの人生に焦点を当てた映画 Oppenheimer が世界中で大ヒット中である。

過去の歴史について考えてみる良い時期であると思うし、マレーシア在住者ならばTitiに足を運んでも良いのではと思える。もちろんそれ以外の慰霊碑も見に行っても良いし、ついでにPort Dicksonにも立ち寄って、シーフードを満喫したり海でゆっくりしても良い。

妙に感傷的になる必要はない。知ることが重要だ。

 
 

実は少し離れたGemasというエリアにも、日本軍とオーストラリア軍が戦った史跡がある。東南アジアの大半の史跡は日本軍が地元民を虐殺したものばかりだが、ここはオーストラリア軍が日本軍を迎え撃って、日本軍が敗北し、1000人以上の日本軍兵隊が亡くなったという珍しい史跡でもある。しかし、本記事ではあえて取り上げない。時間のある人は行ってみてもよいだろう。史跡周辺はよく整備されており、立ち寄ってみたところ、ローカルのおじさんが掃除をしていた。

 
 
 

最後になるが、Titiの慰霊碑の言葉が頭から離れない。

 

罪を犯した人は神による非難を受け、歴史を捻じ曲げたものには天罰が下るのです

 
 
 
 
 
 
 
 
 


※Titiに関する記事は、英語記事ではネット上にもあまり残っていないように見えるが、中国語で検索をすると、数多く出てくる。英語記事も含め、いくつか有用な記事を見つけたので下記に残しておこう。

 

Thousands of Malayan Chinese were killed by the Japanese – particularly through the use of sook ching (purification through suffering) screening operations – while the community was also forced to pay US$50 million to the Japanese as penance for supporting China’s war of resistance against the Land of the Rising Sun. Information about the number of Malayan Chinese killed during the Japanese Occupation is often scanty. In A History of Malaysia, Barbara Watson Andaya and Leonard Y. Andaya wrote “the numbers of those who died varied, but estimates range from 6,000 to 40,000” – the latter figure is also given by T. N. Harper in his book, The End of Empire and the Making of Malaya. More hair-raising, though possibly biased, figures are provided by Elaine Tan in the China Daily Asia. “In just five short months, an estimated 50,000 to 100,000 Chinese people were killed” in Singapore and Peninsular Malaysia, she wrote, adding 1,474 men, women and children were also decimated in the Yu Lang Lang massacre – only 35 individuals survived. Yu Lang Lang is an area that adjoins Selangor, Pahang and Negri Sembilan. Unlike China, where seminal events like the Rape of Nanking are seared into the memories of its denizens today through historical accounts, films as well as a dedicated museum, the misery suffered by many during the Japanese Occupation in this country is infrequently detailed, let alone discussed.

https://www.malaysia-today.net/2018/01/25/getting-malaysian-history-right/
 
 

During the Japanese Occupation, Japanese soldiers arrived at the district on 7 January 1942, exactly one month from the date that they arrived in the Peninsular. It was early in the morning when about forty soldiers cycled into Kuala Klawang from Seremban. The troop was led by two guides who had stayed in Titi before the war and known by their Chinese names of Yah Te and Yah Ming, and had worked as a barber and photographer respectively. Within two weeks, the Japanese had formed a police force consisting of about one hundred men. The presence of the Japanese soldiers sent most of the Chinese in the area into hiding in the surrounding jungle. On the fateful day of 18 March 1942, about one hundred Japanese soldiers, who had cycled from Seremban the previous evening and joined by the soldiers stationed at the district police station, made their way to Jelulung village (余朗朗村) located next to Titi town. Due to its strategic location near the borders of Selangor and Pahang, Jelulung became a favourite hideout for resistance fighters. Japanese soldiers gathered the villagers at the marketplace on the pretext of meeting the people and conducting identity checks. Later, they went on a house-to-house search and when it was done, the villagers were herded into small groups and led away to isolated spots and nearby houses where they were stabbed to death by bayonets. Those who resisted were shot point blank. By dusk, the whole settlement was set on fire. A total of 1474 men, women and children were killed and the massacre was the highest single-day casualties recorded during the Japanese Occupation. In 1979, a memorial was built at the Titi Chinese cemetery and the exhumed remains were finally laid to rest there.

https://museumvolunteersjmm.com/2020/11/21/titi-new-village/
 
 

1942年3月18日,数百名日军(也有说100人或40人)浩浩荡荡开到知知港。单如洪的妻子林观英原是余朗朗村民,据她告知笔者,日军先到半芭村(Jelebu Estate)诱骗村民出来检查“安居证”,随后便拉大队开去余朗朗,命令所有村民到集群学校集合,接受所谓“安居证”的检查。由于日军在半芭检查过后就完事,余朗朗村民不疑有诈,陆陆续续到集群学校等候轮查。林观英母亲发现情况不对,便带著女儿等到胶园躲避,傍晚时分,看见余朗朗村里火光冲天,心知余朗朗大难临头。根据单如洪,约莫当天下午四时,日军开始进行大屠杀,先以刺刀把青年男子一个个刺死,又把妇女拉进学校宿舍奸污,过后再把这些妇女刺死。杀光了余朗朗1474村民,日军回到余朗朗再把整个村子烧光!侥幸逃出生天的余朗朗村民据称仅35人。根据1988年《日治时期森州华族蒙难史料》,日军离开余朗朗之后,一些在余朗朗有亲人的村民去看个究竟,千多具尸体任由暴晒地上风吹雨淋,只闻到血腥味与烧焦尸体的臭味。两三天后,尸骸腐臭,蛆虫滋生,状甚骇人,结果在日军点头下,附近热心村民唯有草草埋尸。战后,余朗朗惨死者的骸骨仍 未处理,甚至有矿场射水笔采锡射出死难者的骸骨!

https://www.orientaldaily.com.my/news/wenhui/2022/06/12/492193

 
 
 

Add a Comment

Your email address will not be published.