華僑になれなかった戦前の2万人の日本人移住者 資料館・慰霊碑 in ミンタル ~中国人移住者と日本人移住者の違い~
ダバオの観光の記事 ドリアンと美しい海 ダバオ観光 でも触れたのですが、ダバオ市郊外のミンタルという場所では、戦前は日本人が20000人も住んでいました。戦前の当時の人口で20000人ですので、かなり多くの日本人が住んでいたというのが想像できます。(地域としては、ダバオとミンタルのエリアを合わせて20000人の在留邦人かもしれませんね。でもすごい数の日本人の人口密度だったと思います。)
まさにリトルトーキョーだったわけです。
そして、その日本人の力でダバオの経済は活性化しました。
そして当然日本人移住者はお金を稼いで、ローカルコミュニティを育み、現地のフィリピン人と結婚などをしました。そのような日本人移民と現地人女性との結婚の結果、現在も日本人子孫が多いです。
そのためミンタルには、日本人が暮らした歴史資料館や、古き日本家屋や慰霊碑などがたくさん残っています。
しかしなぜか戦前の2万人の日本人移住者は現在の華僑のように、その時培った商売を生かして大きな事業を現在に残すなどのことができませんでした。
それはなぜだったのでしょうか。
その理由と共に、ダバオ郊外のミンタルには、過去に日本人が住んでいたことを示す様々な慰霊碑や歴史資料館があります。
あまりネットには情報がありませんでしたので、それらの情報も残しておきたいと思い、記事にしました。
戦前 20000人もの日本人が仕事を求めて移住した場所 ダバオ・ミンタルについて記載します。
ミンタルとは
ミンタルとは、フィリピンのミンダナオ島のダバオ市近くの郊外にある小さな町ですね。町よりも村と言う方が良いのかというくらい小さいです。ダバオ市内からタクシーでも行けますし、安くジープニーでも行けます。
ですので、僕はジープニーで行きました。
下記の写真のように、ダバオから「CALINAN」行きのジープニーに乗って40分くらいです。
場所はこのあたりになります。
それでは、各観光スポットです。
Philippine-Japanese Historical Museum (フィリピン – 日本歴史資料館)
場所はこちら。ミンタルではなく、カリナンという場所になります。ミンタルとカリナンは、車で10分程度の距離でしょうか。ちなみにカリナンはドリアンが良く取れる場所として有名なようです。
フィリピン – 日本歴史資料館の入り口
1994年に東京武蔵野ライオンズクラブにより、フィリピン – 日本歴史資料館がオープンした。この博物館は、1903年から第二次世界大戦の1942年~1945年の終わりまでにダバオにやってきた日本人移民の記録である。
具体的には、アバカ麻の栽培従事者として、戦前、戦中にダバオに移住してきた日本人の資料である。当時は20000人近い日本人が麻の栽培従事者としてダバオに住んでいた。
アバカ麻は、もともとフィリピン原産で、原産地のマニラに由来し、マニラ麻とも言う。繊維が強靭であり、なおかつ水に浮き、太陽光や風雨などに対しても耐久性があった。そのため船舶のロープに等に使える最強の繊維だった。
なおこの博物館は、日本大使館がダバオにベースがあるフィリピン日系人会(Philippine Nikkei Jin Kai, Inc. :PNJK)と契約を結び、今後約1000万円をかけて改装が行われる予定のようである。
ですので、訪問予定の方は、改修中かどうかも事前に確認しておいた方がいいかもしれませんね。
ここは博物館だけでなく、学校も兼ねています。日本語授業も行われているのか、表彰されているようである。よく見ると、表彰されている子供たちのなかのいくつかは、名前が日本の名前になっていますね。日系人なのでしょう。
日本統治時代のフィリピンでのお金でしょうか。
戦前にダバオに移住してきた日本人の為に始まった小学校のようです。1934年、パヤパス日本人学校と記載がありますね。よく見ると、旗が日本の国旗と米国の国旗があります。10年後にお互い戦争をする同士だったのですが。
ノリの良い元気なお爺さんが、最初少しだけガイドしてくれました。後で気づきましたが、そのお爺さんは後で日本人慰霊碑を案内して頂いた方のお父さんかお爺さんのようでした。。
ミンタルに当時住んでいた日本人の家やお店の地図ですね。
リストを見る限り、写真館や運転手、クリーニング屋などがあったようですね。
平和に暮らしていたものが、戦争が始まると、ずいぶん雰囲気が変わります
現地へ移住し、生活していた日本人が、遺言書を残しています。それほど状況が変わったということでしょう。遺言書を読んでみると、ずいぶん現在とは考え方が違っていることが伺えます。
戦時中の日本人にとって、「天皇」が神であったということが分かりますね。
次は、戦後のコーナーになります。
ダバオに移り住んだ日本人は、沖縄出身の人が多かったことが分かります。
昔住んでいたダバオを懐かしむ様子など。
博物館の近くの道はこんな感じ。あまりキレイな感じではないが、みなさんフレンドリーですね。
Mintal (ミンタルの街)
1903年の戦前から~戦争が終わるまでの約40年間、移住してきた日本人が暮らしていたミンタルです。
現在のミンタル小学校内には、いくつかの碑があります。
とりあえず小学校なので、ガードマンに「日本人だが入っていいか?」と確認します。基本的にガードマンの方も、日本人がここに来る意味は分かっているので、二つ返事でOkayと言ってくれます。
一つがこれ、太田恭三郎氏の碑です。氏は第二次世界大戦が始まるずいぶん前に亡くなっておられるようです。日本人労働者は、最初ルソン東北部のベンゲット州の道路工事で働いていました。バギオでの工事かもしれませんね。その道路工事が完了した日本人労働者を、ダバオのアバカ麻栽培のために呼んだ……ということでしょう。そこで太田興産株式会社と言う自分の会社を設立したと。
戦前は、日本よりもフィリピンの方が給与が良かったのでしょうかね。日本人の労働者が出稼ぎをしていたくらいですから。
どちらにせよ、この方がダバオで日本人がアバカ麻栽培を始めた先駆けだったのでしょう。
ミンタルの地名は、民多留が元だったのですね。今でも地名がそのまま使われているというのは感慨深いです。ちなみにダバオ市内でフィリピン人ローカルに対して、「ミンタルと言う名前は、昔このあたりに住んでいた日本人が考えたものらしい」と伝えたところ、「えええ、全然知らないっ」と言っていました。日本人が昔住んでいたことも知らなかったと。まぁ、ローカルからするとそんな昔の話は特に興味が無いですよね……。
あと、もう一つ大きな碑がありましたが、これは何も記載が無く、いったい何の碑なのかが分かりませんでした。
「日米…」と記載されているようなので、なにかしらの戦争の碑だと思いますが、ちょっとはっきりした事は分かりませんでした。
ミンタル小学校内。ちなみに碑の場所は、建物の中ではなく、運動場の横の方にあるので、分かりやすく、見やすいです。建物の中だと、入っていいのか迷ってしまいますが。。。
I love Mintal ES とあります。ESはおそらく Elementary School の略でしょう。
子供たちが遊んでいました。彼らは、ここにあるこの碑の意味は勉強しているのでしょうか。。。
戦闘記念碑があります。字がつぶれていてよく読めませんでしたが、日米がここで激しい戦闘をしたという証拠でしょう。
小学校前の道路。町は大きくは無いですが、結構キレイです。
ミンタルの町中に入ると、まだまだキレイではないところもありますね。
町を歩いていると、どことなく懐かしい作りの建物を見つけることができます。
日本家屋ですね。これは模様は現地的ですが、構造は日本っぽいかと。
当時の日本人が暮らしていた建物をそのまま利用しているのでしょうか?構造が日本家屋だと思います。
Barangay Mintal (ミンタル役場)
次はミンタルの役場?です。バランガイという意味は、その地域を表す言葉のようですが、おそらく町役場で正しいかと思います。ここではミンタル役場と呼ぶようにします。ここに来た時にはさすがに驚きました。鳥居があったからです。
ミンタル役場の場所。
ミンタル役場入り口
「ここはもしかして昔は日本の神社だったのか?」と聞くと、「いや違う。ただ日本に縁がある場所なので、鳥居を置いただけだ」とのことでした。
鳥居は、神道神社などにおいて、神様への場所への入口を示す門だったと思うのですが、とりあえず日本に関係があるんだから鳥居を置いておこうという感じだったのかもしれません。。。
確かに海外においては、深い宗教的な意味ではなく、鳥居は日本を現すキャッチーなシンボルのように見られていますので。。。
役場っぽい場所なので、外国人が入っていいのかは分かりませんでしたが、全然問題はありませんでした。ミンタルでは、日本人が来る意味はみんな分かっているので問題ないです。
建物に入ると、いきなり大きな展示が。
THE LITTLE TOKYO OF PRE WAR PHIL.
とあります。
この町は戦前の日本人移住者が発展させてきた町なのかもしれません。
安倍昭恵総理夫人も来られたようです
この写真は、大日本帝国発行のフィリピンペソを見ている様子とのこと
この本はすごく多くの情報が記載されてある本でした。ってか何で俺、単なる観光客なのに役場の長の方の部屋に入ってるんだろう。。。恐縮です。この本は、ミンダナオ国際大学の敷地内にある日系人会事務所にもあるかもとの事。是非とも時間をかけてゆっくり読んでみたかったのですが。。。。
最近退位なされました。天皇の写真が、フィリピンの役場の長の部屋に飾ってあるというのも不思議な感じがします。
Mintal Public Cemetery (日本人慰霊碑)
ミンタルの公共墓地です。先ほどの役所から車で5分くらいかな。僕は単なる旅行者だったのですが、なぜか役所の方が車で送迎・ガイドをしてくれました。聞くところによると、ミンタルは日本に関連する場所なので、ほぼ毎週日本人が来るようです。特に終戦時期の8月が多く、旅行者も多いそうですが、非常に大きな組織の関係者なども多い様子。
なので、役所のお仕事として、そういった日本人の人のサポートをすることも含まれているようです。
墓地には特に特筆すべきことはないですが、中心地辺りには日本に関する記念碑がいくつかあります。
墓地の場所はこちらになります。
墓地の雰囲気。まあ墓地ですので、特に何もないです。夜中にくれば不気味でしょうが、昼間なら特に気にすることはないです。
沖縄の塔があります。ダバオに移住した日本人は、沖縄出身の人が多かったからですね。
憂い無しの碑とありますね。
碑を読むと、フィリピン日本人会と日本フィリピンボランティア協会が、日比の友情を深める目的で建立した様ですね。
中には入れませんが、別の碑があります。
現大統領のドゥテルテ氏の日本語の石碑がありますね。大統領自ら書いた文字でしょうか??
木がえぐられていますね。聞くところによると、フィリピンのローカルの方がこれらの木の下や墓石の下には山下財宝が埋まっているのではないか?という噂が広がり、このようなことをした盗賊がいるとのことです。
ダバオ会福島県支部などもあるようですね。
石碑を見た後は、役場に戻る。どうもどこかの学校の卒業式が行われていたようです。
こちらの方、タタさんにいろいろ丁寧に説明していただきました。
ここで、ミンタルの観光は終わりです。
ダバオ市内から、ジープニーで乗り換え無しで来ることができますが、意外と距離があることと、ダバオ市内は渋滞がありますので、片道1時間は考えておいた方がよいでしょうね。
次は、ダバオ市内に戻りまして、日系人会事務局のあるフィリピン日系人会国際高校とミンダナオ国際大学を目指します。
Mindanao Kokusai Daigaku (ミンダナオ国際大学・フィリピン日系人会国際学校)
最初地図で見たときには、日本の大学がダバオ市内に分校を作ったのかな?と考えていましたが全く違いました。建物を見る限り、Mindanao International Collegeと記載があります。
場所はこちらになります。Lanangというエリアになります。この近辺はダバオ市内でもかなり治安の良いエリアのようです。ダバオはドゥテルテ大統領の市長時代の奮闘でかなり治安は良くなりましたが、それでも良くない場所もあります。が、ここの学校の日本人の先生に聞いたところ、このLanang周辺は大丈夫のようですね。
ちなみに、この近くにはキレイでダバオで最も巨大なショッピングモールのSM mall Lanangがあります。
I Love Nikkeiとありますね。別に日経新聞が好きなわけではないですよ。日系人のことです。
日系人というのは、戦前からフィリピンに移住していた日本人の子孫の事です。フィリピン全体では、20万人もの方々がいると言われています。ここダバオは戦前から麻の栽培で労働していた日本人が多く、1世・2世の年配の方を初め、5世までで現在約7000人程度の方が暮らしています。
100年近く前に、仕事を求めて移住したのですから、東南アジアに散らばる華僑に似ていますね。しかし、大日本帝国が戦争を起こしてしまったため、戦後は辛い日々を送ることもあったでしょう。
フィリピン日系人会インターナショナルスクールもあります。インターナショナルスクールと記載がありますが、実は公立学校のようです。生徒さんも大半がローカルフィリピン人ですが、1300人くらいいるようです。そして、こちらの幼稚園・小学校・中学校・高校は公立ではありますが、日本人も入学できるようです。小学校、中学校、高校のそれぞれに1人ずつの日本人教員がおり、教員さんは日本語の授業のみを行う専属の職員のようです。
しっかりと調べてはいないのですが、
- 公立だが、日本国籍の日本人も入学できる(もしかして授業料もそんなに高額ではない?)
- 日本人の先生がいて、日本語の授業も行われる
- 授業は基本はタガログ語と英語なので、語学学習もできる
事を考えると、日本人の移住先になりえるのではないかと思います。
公立なのに日本人も入学できるというのは、日本人の特権ではないでしょうか。もちろん日系人の方の努力があってこそなのですが。
僕は観光で見に来た部外者なので、さすがに中には入れなかったのですが、ガードマンさんも日本人には慣れているのでいろいろ話をしていました。すると、ガードマンさんが、ちょっと日本人の先生を一人呼んできてあげようと言われました。
確か僕が訪問したのは日曜日か何かの学校が休みの日だったと思いますが、学校内で作業をしていたようでした。
ですので、日本人の先生からいくつか話を聞くことができました。
まぁそんなに難しい話はしていません。日本人でも所定の手続きを踏めば入学は可能。だが仕事でこちらで働いている方のご子息とかの例はあるが、日本を外に出ての移住みたいな例はあまりないかなぁと。
あとは、現地採用者はダバオにはいるのか?とか。マニラと違いますので、あまり聞いたことも無いみたいでしたね。
個人的には、移住教育先になりえるような気はするのですが。
語学勉強にはうってつけ!しかも治安は悪くないし、ショッピングモールもある、美しいビーチも近くにあるし。かつ、ダバオならばまだそんなに生活費は高くないでしょう。
安倍総理も2017年に来られたようですね。
学校へ向かう道には、いくつかの表彰ポスターがありました。
お、これはゲームですね。
こちらの学校の学生さんは、フィリピン国内では指折りの日本語話者の学生が多いようです。
近くには、あまり大きくはなさそうですが、小ぎれいな感じのするショッピングモールもありますね
日本食屋もあるようです。ってかカラオケかな??
あまり大きくはないですが、日本食専門のスーパーも。
ミンダナオ国際大学の入学要綱。
ダバオ周辺での戦前からの日本人移住者及び日系人に関する主な場所としては以上です。
まとめ
フィリピンのダバオ周辺の戦前~戦後にかけて日本人が暮らした足跡を追いかけてきました。
- Philippine-Japanese Historical Museum (フィリピン – 日本歴史資料館)
- Mintal (ミンタルの街)
- Barangay Mintal (ミンタル役場)
- Mintal Public Cemetery (日本人慰霊碑)
- Mindanao Kokusai Daigaku (ミンダナオ国際大学・フィリピン日系人会国際学校)
少々長いまとめと、個人的意見になります。
日本人移住者は、戦前から現地で麻の栽培業者として一生懸命働き、現地民との信頼を築き生活してきた。それはもしかしたら今現在日本国内でいわれる外国人単純労働者にだったのかもしれません。
そして、彼らは現地で生活するうえで、ローカルフィリピン人ともですが、当時フィリピンを統治していたアメリカからも信頼を得て生活していたのでしょう。
それが、いきなり本国の大日本帝国が戦争を始めた。
ダバオに在住していた日本人が、現地フィリピン人やアメリカ人と小競り合いの喧嘩や罵り合いをしていたわけではないでしょう。住んでいて、現地人と結婚した者も数多くいたので、ちゃんとコミュニケーションを上手くやっていたのだと思われます。
それが、いきなり大日本帝国が、真珠湾攻撃をしてアメリカと戦争を始めたことで、今まで育んできたコミュニティをぶち壊したわけです。
僕がちょうどフィリピンを旅していた時に、とあるニュースが飛び込んできました。
旧日本軍兵士を「英雄」とたたえ怒り招く、マレーシアで慰霊碑の撤去要求
【3月26日 AFP】マレーシアで、第2次世界大戦(World War II)の慰霊碑が修復され、旧日本軍兵士3人を「英雄」とたたえる看板が設置された。これに対して怒りの声が噴出し、撤去を求める声が上がっている。
1940年代初めの日本による東南アジア占領については、日本政府が賠償を行い、かつての敵と友好関係を築いた後にも、苦い記憶は依然残っている。
マレーシア当局は観光振興の目的で、日本から資金提供を受け、1941年に北部クダ(Kedah)州の州都アロースター(Alor Setar)に建立され、長い間放置されてきた石碑を修復した。
この石碑はもともと、英国をはじめとする連合国軍を遮断するため、戦略的な要衝だった橋の確保に当たって戦死した兵士3人をたたえて日本が建立したものだった。
しかし先週落成した修復後の慰霊碑の看板には、「アロースター橋を制した日本人の英雄3人の歴史」と記されていた。
華人系の政党、マレーシア華人協会(MCA)のリム・スウィー・ボク(Lim Swee Bok)氏は26日、約15人の支持者らと共に北部ペナン(Penang)州にある日本領事館を訪れ、慰霊碑の撤去を求める書簡を手渡した。
リム氏はAFPに対し、「日本による占領の苦痛に満ちた時代を思い出させるだけだ」と語った。
地元スター(Star)紙は、慰霊碑の周囲に「日本兵は英雄ではない」「地元住民を殺害し、レイプし、斬首した」「日本兵は残虐だ」と書かれた大きな赤い横断幕5枚が掲げられた写真を掲載した。
クダ州の観光委員会議長は「誤訳」を謝罪。看板は撤去したものの、慰霊碑自体の解体要求には応じず、「石碑は1941年以来ずっとそこにあるものだ。さらにわれわれはクダ州により多くの観光客誘致を目指しており、史跡の維持管理の取り組みの一環だ」と説明した。(c)AFP
https://www.afpbb.com/articles/-/3217673
このニュースを見たときに、恐ろしさを感じましたね。マレーシアにとっては大日本帝国は侵略者なので、英雄扱いする人はまずいません。それは、現地のマレー系だろうと中華系だろうと同じです。
現在の日本の文化や技術を賞賛こそしますが、それは過去を忘れたわけでもありません。よって、このような英雄扱いは、侮辱以外の何者でもないでしょう。
そして、驚くべきことに、こういうことを現職のペナン総領事がやってしまうということです。
ちなみに、数日後にマレーシア在留者に対して、領事館から下記のようなメールが届きました。
領事館自身の失態で、ローカルマレーシア人が抗議しているのに、全く自分の責任に触れていない。この無責任さには驚きを隠せませんね。まるで責任を何一つ取らない戦前の軍部といっしょかと。
まぁこのメールの件は本題ではありません。
この件で気づいたことは、
どれだけ日本人移住者が現地に根を下ろし、ローカルとのコミュニティを大切に育んでいても、祖国が大きな力で相反する行動を行えば、いとも簡単に移住者の努力や育んできたコミュニティを破壊してしまうことができるということ
です。
今回のペナンの慰霊碑事件でもそうでしょうし、戦前のダバオもそうだったのでしょう。
戦前のダバオは、移住者が大切に育んだコミュニティを、大日本帝国がいきなり始めた戦争によってぶち壊されたわけですね。いや、ぶち壊されただけではなく、現地民から恨まれ殺される事もあった。
近年は日本人の海外移住が非常に多いですが、今の日本の国家体制を考えると、海外に移住した日本人の運命も、場所や立場によっては非常に危ういと考えました。
どういうことかというと、現在の海外移住者も、何か戦争が起きると、この戦中・戦後のダバオのように、残留孤児になってしまう人もいるかもしれない
- 現在の日本国が日本軍兵士を英霊扱いして現地民の怒りをかった件 (2019年)
- 過去の大日本帝国が戦争を始めて現地民の怒りをかった件 (1942年)
この2つは規模こそ違えど、移住者や現地民の細やかなコミュニティなどの、遥か頭の上から国家がいきなりとんでもないことをしでかしたという意味では全く同じです。
戦後には、日本人移住者は現地フィリピン人からも戦争を起こした犯罪者として恨まれますので、日本に帰国する者・戸籍や名を隠してフィリピンに残留する者(フィリピン残留孤児)、現地人と結婚して日系人として暮らす者などいろいろあったと思います。
さて、もうこのブログのタイトルの答えは見えてきたと思います。
- なぜ戦前の2万人の日本人移住者は華僑になれなかったのか?
- 中国人移住者と日本人移住者の違いはなんだったのか?
これは祖国が戦争を起こしたか起こさなかったかの違いだけです。
働き者で信頼も厚かった日本人は、祖国が戦争を起こしたために、100年以上も前に東南アジアに移住した多くの華僑のような幸せな結末にはならなかったのですね。戦争が起きなければ、日本版華僑になっていたかもしれません。
近年、多くの日本人が海外に移住しています。
と同時に、日本では超極右政権が独裁を続けています。政治家も「戦争」発言を平気で行うような世の中になっています。
日本人移住者がそれぞれが選んだ場所や国で、今後も何事も無く平穏に暮らせるか…………、また同じ道を繰り返し、ローカルの人間に憎まれ、悲劇を繰り返すのでしょうか?
アフリカや東欧などの、特に日本の政治が及ばなさそうな場所であれば関係ないかもしれませんが、アジアは少し怪しいですね。
もし日中戦争などを日本が起こせば、中国国内在留邦人はとんでもない目にあうでしょう。
先ほどのペナンの日本軍兵士を英霊とたたえてローカルマレーシア人が激怒している件もそうですが、このようなことが続けば、フィリピン残留孤児ならず、マレーシア残留孤児にならないとも言えません。
今後の答えは誰にも分かりませんが、非常に不透明な状況が続くと思われますし、状況を的確に判断し、今後良くないと判断すれば、その地を離れて別の場所に再度移住するなどのスピーディーな判断が必要になるような気がしますね。
ではでは。