Author: Hiro
スリランカの最大都市コロンボ。ですが、コロンボは首都ではなく、正確にはコロンボの隣にある、Sri Jayawardenepura Kotteという場所が首都という扱いになります。が、基本的に観光客は誰もそのことを知らないですし、立ち寄ることもまず無いと思います。 スリランカに10日間滞在して、多くのローカル市民と関わってみて感じることは、 物凄くフレンドリーな国民性 国家が経済破産宣言をしたので、表面的には通常通りの生活を送っているが、『金が無い』が口癖の人が多い 基本的に治安は良い。騙してお金を取ろうとするScammerは多いが、断ればしつこくはない(場所にもよる。観光地や市内中心部は夜歩いても問題ないが、コロンボ市内北部は治安が悪い) 日本や日本人に対するイメージは良いが、日本の文化に対してはさほど興味はない。東南アジア諸国に比較すれば、スリランカには日本食レストランなどは著しく少ない(インドやバングラデシュでもそうだったが、南アジアの人は遠いからなのか、あまり日本文化に興味はない) 飯は南インドとほぼ同じ。(マレーシアにあるインド料理ともほぼ同じ) コロンボ市は人口100万人未満であり、基本的には田舎。そのため、レストランなども夜8時には閉めるので、夜は人通りが少なく、真っ暗。娯楽が少ない(コロンボ都市圏としては200万人近くはいるが、それだと相当広くなる) セブンイレブンなどのコンビニもないので、夜10時をすぎると、水や食料を買うのが少し難しくなる 酒を飲んだり、遊ぶなどのナイトライフは少ない。その反面、カジノは24時間開いている。 日本などの東アジアとは、だいたい3時間程度の時差があるため、意外と友人との連絡には困ったりする 多くの外国人が感じる通り、コロンボは基本的に退屈な街です。ガイドブックによく記載してあるような建物やお寺は、見るだけで終わってしまうものも多く、外国人旅行者はあまりコロンボには滞在しません。比較的大きな町なのにも関わらず、娯楽はゼロです。旅行者の多くは、コロンボを起点としか考えません。第2の街キャンディや、アヌラーダプラ・シーギリヤなどの遺跡エリア、もしくはヨーロッパ人が好んでいくスリランカ南側のリゾートエリアに行くまでの通りすがりになります。スリランカは美しい自然を満喫する国だといえます。アジア人旅行客の滞在は短いですが、ヨーロッパ人は1ヶ月以上滞在する人が多いように見えます。後述しますが、TukTukをレンタルして、自分で運転してスリランカを一周する旅行者も多いです。この記事では、『ガイドブックに載らない本当に行くべきディープなコロンボの観光スポット』と記載した通り、自分が訪れて、これは面白いと本当に感じたものだけを記載します。 Jami Ul-Alfar Mosque.。このモスクはデザインも良いですが、両脇の壁の形も非常に興味深いですね 目次【本記事の内容】 1.コロンボ基本情報 1-1.場所・地図 1-2.どんな街?概要 2.コロンボ観光 2-1.Aluthkade Streetfood 2-2.Galle Face Green 2-3.Fort Railway station周辺のPub 2-4.Colombo Lotus Tower 2-5.The Gallery Café 2-6.Kelaniya Raja Maha...
The Pearl of the Indian Ocean 日本語にすると、『インド洋の真珠』。スリランカは自然が美しいことから、英語の記事でも実際にそのように呼ばれている。スリランカはあまり都会ではなく、自然が多い国だ。人口は約2000万人。台湾と同じくらいだが、一人あたりの経済規模は台湾の10分の1もない。首都コロンボですら、夜8時をすぎると、多くのレストランはお店を閉めるし、街は暗くなる。旅行先としては、アジア人からするとさほど有名な場所でもない。 素晴らしい世界遺産と世界でも稀に見るほどのフレンドリーな気質は、ヨーロッパ人に向けられることが多い。スリランカを観光で訪れる国は、コロナ前とコロナ後では大きく変わった。中国人観光客をあてにしていたスリランカだが、コロナで中国人は来られなくなった。観光産業が重要なスリランカは、その代替として、ロシア人とウクライナ人に目をつけ、両国の入国に関するビザ要件を緩くした。そのため、現在最も多い入国者は、ロシア人であり、その後はウクライナ人、イスラエル人、ドイツ人、イギリス人などが続く。スリランカは南アジアに位置するが、アジア人はもともと観光客としてはさほど多くない。日本人、韓国人も、2022年の政変以降はばったりと来なくなった。お隣のインドからは、ある程度の観光客は来るようだが、実際に消費するお金の額を考えると、ヨーロッパ人に熱い視線が注がれている。街を歩いていればロシア語が勉強できるくらい、確かにロシア人が多かった。ロシア語独特の、果実を口で潰しているような発音がよく聞こえる。ロシア人は戦争の影響もあり、数ヶ月単位、いやもはやロシアには帰らないレベルで滞在している人も多い。イスラエル人やドイツ人も数ヶ月単位の滞在を問題としない。 2022年7月、対外債務を支払えないとして、スリランカは経済破産を宣言した。 紅茶・観光に大きく依存したスリランカ経済は、コロナで観光収入が激減することに耐えられなかった。中東からオイルを購入するお金もなく、一時はスリランカで取れる紅茶葉と中東からのオイルを物々交換する協定も結ばれた。混乱を極めた生活は、IMFから3000億円を一時的に借りることで、現在は通常通りの生活が送れているように見えた。停電が一日に1時間程度起こるが、ガソリン不足などの混乱は見られず、表向きに関しては、市民生活は何も変わらないように見えた。人が行き交うショッピングモール、レストラン……旅行者の私からしてもさほど変化は感じなかった。 『国家財政が破産をしても、庶民生活はさほど変わらないものなのだろうか?』 確かに一見は変わらなかったが、出会う人々と話をしていると、彼らの多くは『No Money』を頻繁に口にする。首都コロンボで最も多く人が集まる場所のGalle Face Greenに集まるスリランカの人々は友達と楽しそうに談笑し、笑顔で満ちている。しかし、路上に寝ている人もいる。歩いていると、『金くれ、金くれ』とせがんでくる人も多い。今までどこの国に行っても、ここまでお金をせがまれることはなかった。屋台のおばちゃんも、『金が無い。それが唯一の問題だ』という。スリランカ人は外国人を見ると話しかけている陽気な人が多い。私はショッピングモール前で座ってローカルと一緒に談笑していたので、私から彼らに、『外は暑いだろう。ショッピングモール内のカフェでも行ったらどう?』と聞くと、『カフェで飲む金が無い』と言っていた。 スリランカ庶民の平均月収は150USD程度だ。優秀なスキルを持った人は、300USD位もある様子。2022年からの世界的なインフレでスリランカ国内の物品の価格は大きく上昇した。そして、米国の金利上昇と経済危機により、下記のようにスリランカ通貨ルピーは大暴落をした。80%近く下落をしているので、多くの人が多額の財産を失っただろう。その通貨の暴落が、輸入品の価格をも大幅に引き上げた。手にできる収入は変わらないのに、支出は大きく増えた。目に見えないところで、庶民の生活は厳しくなっているのは感じた。 『あの日以来、いろいろ難しくなったわ』 バス移動の際に、隣の席に座っていたスリランカ人女性は言っていた。 『多くの人が、外国で働くことを望むようになった。私も今の経理の仕事の資格を取ったら、他の国で働きたい』 スリランカも基本的に多くの人が英語を話せる。また、スリランカの大学を卒業すると、コモンウェルスの国にありがちだが、同時にイギリスの学位がもらえる。スキルが高ければ、抜け出せるチャンスは有る。英語が苦手で、かつ日本国内でしか通用しない資格しか持っていない日本人よりも、スリランカの人々は、外の世界に出る可能性は高いかもしれない。(国籍はおそらく若干不利だけども) 外国人旅行者からすると、スリランカ・ルピーの通貨の安さは魅力だ。世界的なインフレにより、現地商品の価格は上がっているが、安いルピーで換算すると、ずいぶん安く感じた。私は10日滞在したが、食費・ホテル・移動費を合計しても、あまり多くのお金を費やした記憶はない。 タイ・ベトナム・インドネシアなどの東南アジア諸国は物価が安いことで長年知られてきたが、それらの国よりも遥かにスリランカの商品は安く感じた。ホテルの価格も、東南アジア諸国よりも一段二段と安く感じた。 当然スリランカの人々もそのことを理解しているため、『外国人価格』を高めに設定する。これには、多くの外国人も不満を隠さない。 実際に、経済破綻をした国を訪問するのは初めてだった。 治安は?人々の生活は荒れていないだろうか? ガソリンなどは問題なく供給されており、移動に支障はないだろうか? 停電などは大丈夫だろうか? 様々なことを考えたが、スリランカ人の友人と話をしていて、今の時期なら大丈夫だという意見を聞いたため、スリランカを行きを決定した。実際に上記の問題は何一つ顕在化しなかった。普通と何も変わらない日常だった。その点では、私はラッキーだった。しかし、友人の話によると、今の時期は良いが、2023年3月から選挙が行われる可能性があるため、また不安定になる可能性がある……とも聞いた。確かに、選挙が起きることによって、何かが起きる可能性は、複数の人が示唆していましたね。もし3月以降に旅行を計画されている方がおられましたら、少し状況を見たほうが良いかもしれませんね。 今回の経済破産をした国の人々がどういう暮らしをしているのか?についての個人的見解は、 『表面上の人々の生活は、破産前と破産後もさほど変わらないが、実際の財布の中身はなくなってしまう』 という結論に到達したように見える。スリランカの人は海外旅行をしたことがない人も多いが、今では国内移動での旅行すらもお金の問題から難しくなったとも聞いた。 しかし、人の一生で何が最も大切なものなのかに関しては、スリランカの人々を笑顔を見ていると、金ではない別のものなのだということも分かった。 そして、私はなぜ破産をしてしまった国を訪問したかったのか? それは、近い将来の日本人の生活を早めに見ておきたかったからだと思う。スリランカとはずいぶん形は違うと予想するが、日本に住む日本人は、将来非常に厳しい経済的状況になるでしょう。見て見ないふりはできるが、避けることにはならない。それがゆっくり来るものなのか?急激に来るのか?それは分からないが。 多分その頃の日本も、今のスリランカと同じように、 『金が無い。金が無い』と発言する人は増え、海外での仕事を希望する人は増えると思いますが、表面的な社会そのものは特に変わらないことでしょう。 それが分かっただけでも、今回の旅の収穫だった。もちろん、素晴らしい仲間との出会い、美しい観光の体験もあったのだが。 しかし、スリランカの人々は、彼らのお金を盗んだ人間を許さなかった。デモを起こし、首謀者をシンガポールへ追い出した。そこは立派だと思う。 スリランカの人々は、とても心優しい方が多く、フレンドリーだ。場所によってはあまり治安が良くない場所もあるのだが、基本的に治安は良い。たとえ経済破綻をしていようとも、だ。Scammerも多いが、そんなにしつこくはない。そして仏教国のため、日本人とは宗教的な行動も比較的近い。 すぐに経済的に上向くことは難しいだろう。スリランカ全体としては、東南アジア諸国よりも10年、20年は遅れているように見える。経済の喉元も、すでに中国の支配下に落ちているようにも見え、独立国としての立場も危うく見える。インフレも前年度比50%と、驚くべき速さで急激に進んでいる。 引用:https://www.cbsl.gov.lk/en/measures-of-consumer-price-inflation それにともなって定期預金金利も30%に達している異常事態だ。 しかし、私は多くの素晴らしいスリランカの人々に出会ってきた。彼らの生活が向上することを祈っている。...
ジャワ島中部の都市スマラン。170万人の人口を誇り、ジャカルタ・スラバヤ・バンドン・メダンと並んで、インドネシアの5大都市の一つ。日系企業も多く進出しており、在住者も多い。大都市なのだが、どこかのんびりしている。いくつか観光地はあるのだが、そこまで突出した観光地はないため、インドネシア人は立ち寄るが、外国人観光客はそこまで多くはない。日本との関係は深い。太平洋戦争が終結後、日本は降伏したが、いくつかの日本兵はスマランにとどまっていた。インドネシアが独立を宣言し、独立を認めないオランダと戦争状態に入る中、インドネシア人はオランダ軍と戦うための武器が必要だった。日本兵は武器を持っていたが、連合軍の指示により、武器をインドネシア人に渡してはならないという規則があった。そこで、武器が必要となったインドネシア人と、それを拒む日本兵は戦闘状態に陥り、両方に数多くの犠牲者がでた。インドネシア国内では5日間戦争という呼び名で知られている。スマラン市民でそのことを知らない人はいない。その際にブル刑務所というところに拘束されていた日本人が200名近くが殺害・行方不明になっている。現在はそのブル刑務所は、女子少年院として利用されている。 スマランの目抜き通り ローカルマーケット。朝から活気がある 夜も賑やか。若者軍団は地べたに座る 目次【本記事の内容】 1.スマラン基本情報 1-1.場所・地図 1-2.どんな街?概要 2.スマラン観光 2-1.Simpang Lima 2-2.Pantai Marina 2-3.Kota Lama 2-4.Lawang Sewu ラワン・セウ 2-5.Tugu Muda 2-6.Sam Poo Kong 2-7.Mall Paragon City Semarang 2-8.Masjid Agung Jawa Tengah (MAJT) 2-9.Ronggowarsito Museum 2-10.Kampung Batik Gedong Semarang 2-11.Kampung...
サマリンダと聞いてすぐにピンとくる日本人はいないでしょう。東カリマンタン州の州都で、カリマンタン島・ボルネオ島で最大の都市です。地理的には、ボルネオ島はマレーシア側、カリマンタン島はインドネシア側を意味しますが、カリマンタン島の人も自分達はボルネオ島に住んでいると思っているので、どちらの名前を使っても大丈夫だと思われます。サマリンダは、人口が80万人で、マレーシアのサラワク州のクチンやサバ州のコタキナバルよりも大きな都市です。しかし、サマリンダには特に観光地もありません。また、大きなビジネス街も、大きなショッピングモールも何もありません。人口が多いですが、何もありません。街は茶色っぽく、どことなくほこりっぽい。人々は穏やかで、治安は悪くないのですが、ちょっと未開の地と言っても良いでしょう。きれいなショッピングモールもありません。(Big mallというショッピングモールはそこそこ現代っぽいモールにも見えますが、ちょっと郊外にある)今頃は、どこの街でも、若い人が始めたようなおしゃれなカフェがあります。しかしサマリンダには、そういったものはありません。市内を走るバスもありませんので、インフラも整っていません。市民の足は、個人が所有するバイクです。マハカム川という大きな川があり、その川沿いにある街のため、大雨が降るとよく洪水になります。近年新しくサマリンダ空港ができましたが、新しい割に大きくない。しかも空港の位置も、市内から30km以上もかかるため、距離も遠い。サマリンダを訪問するインドネシア人も、100km離れたバリクパパン空港に到着して、そのままバスでサマリンダに来るという人も多い。東カリマンタン州の州都でありながら、100km離れたバリクパパンのほうが遥かに将来性があり、すでに発展しています。当然、マレーシアのクチンやコタキナバルの方が、このサマリンダよりも遥かに発展しています。それでは見るものは何があるの?と聞かれると、マハカム川と人々の暮らしを見ること、あとは20kmくらい離れたところにあるTenggarongに立ち寄ることくらいでしょうか。 目次【本記事の内容】 1.サマリンダ基本情報 1-1.場所・地図 1-2.どんな街?概要 2.サマリンダ観光 2-1.Mahakam River マハカム川 2-2.Air Mancur – Patung Pesut 2-3.Samarinda Central Plaza 2-4.Taman Samarendah 2-5.Mahakam Lampion Garden 2-6.Islamic Center Mosque Samarinda 2-7.Tenggarong 2-8.街並み散策 3.サマリンダへの行き方・アクセス 3-1.サマリンダの空港・空港から市内まで行く方法 3-2.公共交通機関 3-3.ホテル・宿 4.まとめ サマリンダ基本情報 ...
カリマンタン島の港湾都市バリクパパンに4日間滞在してきました。正確には、広いカリマンタン島の東部の、東カリマンタン州になります。カリマンタン島と言うと、森だらけのイメージがありますが、ここバリクパパンは人口70万人の大都市であり、海に面した港町です。バリクパパンは、石油・天然ガスの供給基地でもあるため、インドネシアの国営石油企業プルタミナの一大拠点があり、またインドネシア軍の基地もあるため、首都ジャカルタからは遠く離れていますが、街も整然としており、経済も潤っているため、治安も安定しています。また、インドネシア政府は、近年首都移転を発表しましたが、その移転先であるヌサンタラはこのバリクパパンから、車で約100km離れた場所にあります。その場所はゼロポイントと呼ばれ、今では誰もが行くことができます。 しかし、実際に行っても今は石碑とサインボードくらいしか無いため、ローカルの人々も誰も行きません。しかし、このバリクパパンは、新しい首都ヌサンタラから最も近い街であり、ヌサンタラのための街や空港を建設する計画もないため、このバリクパパンが事実上、インドネシア新首都のお膝元になると思われます。現在は観光で有名な場所でもないため、世界中から人が集まることはありませんが、首都機能が実際にヌサンタラに移転されると、世界中から要人や政治家などが、このバリクパパンに滞在することが予想されます。それに伴って、バリクパパンの名前も広がり、観光客も増えるかもしれません。ビジネス面でも特に、韓国企業のヒュンダイとプルタミナが共同で大きな事業をしていることもあり、韓国人在住者が多いことでも有名。街なかには、韓国食材スーパーが多くあります。外国人観光客は多くはないが、石油企業プルタミナがあるため、シェルやシェブロンなどの欧米石油企業からのエキスパートが、技術支援などで滞在しているため、彼ら向けの優雅な家も海岸近くにいくつかあります。また、旧日本軍が統治していたこともあり、関連するいくつかの史跡もあります。きれいな街で海岸も多くあり、大きい洗練されたショッピングモールもあるため、個人的にはここに住んでも良いと思えるような場所でしたね。 バリクパパンの目抜き通り 朝も夕方も、安心な広い道路でジョギングする人は多い。 バリクパパンのシンボルは街中にモニュメントがあります。これは熊?マレー熊?でしょうか このマンホールはかわいいですね 目次【本記事の内容】 1.バリクパパン基本情報 1-1.場所・地図 1-2.どんな街?概要 2.バリクパパン観光 2-1.Pantai Kilang Mandiri 2-2.Kemala Beach 2-3.Tugu Australia 2-4.Merdeka Field 2-5.Pasar Klandasan 2-6.Monumen Makam Tentara Jepang 南方方面戦没者慰霊碑 2-7.Tugu Perdamaian Jepang 平和と友好の碑 2-8.Pasar Inpres Kebun Sayur 2-9.Bunker Jepang 2-10.Kampung Atas...
マレーシアやシンガポールに住んでいる人からすれば、おなじみの島ではないだろうか。バタム島。クアラルンプールからなら、スバン空港から飛んでいるマリンド・エアに乗れば一時間程度で着く。ジョホールバルからなら船で約2時間、シンガポールからなら船で約1時間だ。ハート型の形をしたバタム島とそのすぐ東側にはビンタン島がある。今回は両方の島に訪れてみた。ビンタン島は島の北部に高級リゾートホテルが乱立しているためリゾートのイメージがあるが、バタム島はそんなイメージはない。もしあなたがマレーシアやシンガポールに住んでいて、『ちょっと今週末はバタム島に行ってくるよ』とでも言おうものなら、あまり良くない目で見られるだろう。ジョホールバルでタクシーに乗ってフェリーターミナルに行く際に、ドライバーから『バタム島?あ、ダメダメ。嫁が許可を出さないよ』と言っていた。昔からこの島は売春島で有名である。シンガポール人が通貨の強さを背景に女性を買う場所である。陸地続きではないが、国境沿いの街というのは、両国の影響を強く受けるため、バランスに欠け、こういうことは往々にして起こりやすい。個人的には興味がない領域ではある。しかし、110万人が住む大都市のため、当然そういったものだけではない。EPSONの巨大工場もあるし、大きなショッピングモールもある。ゴルフ場もある。しかしイメージだけではなく、実際に中華系おじいさんと若いインドネシア人女性が歩いている姿はよく見た。市内中心部の繁華街の名前は、ナゴヤだ。日本統治時代の名残かと思ったが、ローカルに聞いても、誰も理由を知らないし、その名前の意味に興味すら持たない。また、バタム島は中華系のインドネシア人が多い場所でもある。インドネシアで中華系が多い都市は、ジャカルタ、スラバヤ、バタム島、メダンだ。大都市か、もしくはマレー半島周辺だ。インドネシア人は英語があまり得意ではないが、中華系は英語が話せる人が多い。中華系はインドネシア国内では、どうしても分断される傾向がある。昔からインドネシアの土地に住んでいる原住民と、そうでない中華系でだ。表立ってはいないが、中華系は中華系だけで固まる傾向はある。そのため、ある種の危機感があるため、子供の教育がしっかりしていると思われる。インドネシア中を回って今更思うことだが、バタム島はマレーシアとシンガポールに近いだけあって、バタム島の人々は地理にも明るい。他国で何が起こっているかのアンテナが高い。他のインドネシアの都市の人は、基本的にインドネシア国内のことしか知らない。バタム島の経済は、シンガポールに大きく依存している。シンガポールマネーが島の経済活性化には重要だ。それも仕方ないだろう。1時間船に乗れば、世界最先端の都市がある。シンガポールとバタム島では、インフラや文化に数十年の差があるように見える。おもしろいことに、バタム島のタクシードライバーは、シングリッシュを話す。シンガポールからの出張者も多い。遠く離れた首都ジャカルタよりも、裕福なシンガポールのほうが重要なのは言うまでもない。 ローカル感あふれる市場。 目次【本記事の内容】 1.バタム基本情報 1-1.場所・地図 1-2.どんな街?概要 2.バタム観光 2-1.Nagoya Foodcourt 2-2.NAGOYA HILL MALL 2-3.Grand Batam Mall 2-4.Welcome to Batam Monument 2-5.Mega Wisata Ocarina Batam 2-6.Museum Raja Ali Haji 2-7.A2 Food Court 2-8.Harbour Bay 2-9.ビンタン島 Tanjung Pinang 3.バタムへの行き方・アクセス 3-1.バタムの空港・空港から市内まで行く方法 3-2.公共交通機関 3-3.ホテル・宿 4.まとめ ...
Mid ValleyのGSCで、非常に短い期間限定で興味深い映画をやっているのを見つけた。実際には、5日間くらいしか上映しておらず、1日に1度上映するのみ。KLでの上映が終われば、ペナンやジョホールでも少し上映されるようだ。興味深い内容だが、そんなにヒット映画でもないので、実際にこの映画を見る日本人はほぼいないだろう。日本人は当時のことを忘れることはないと思うが、フランス人がどのようにこういったテーマで映画を作るのかが気になったので見に行ってきた。フランス語で英語字幕だ。字幕はあまり好きではない。映像だけでは内容を追えない。字幕も見ないといけないので、集中しづらい。お客さんは5人程度だった。おそらくローカルだったと思われる。津波の映像が流れるので、見れない人もいるだろう。ちょっとツイッターに書くだけにするつもりだったが、文字数が多すぎになりそうなので、ひさびさのブログにしてみた(^o^) ポスターはこちら ■あらすじ 投資銀行クレディ・フランスのリスク担当として日本支社に駐在するフランス人アレクサンドラは、夫は香港で働き、自分と2人の子供は東京に住んでいる。高級なサービスアパートメントに住み、現地ローカル日本人よりも遥かに高い生活レベルを送っている。3月11日、信頼している部下に解雇通知をする辛い場面中に、大震災に遭遇する。何事もなかったと思ったのもつかの間、テレビで津波の映像が流れる。(これは、実際の津波の映像をそのまま使っている)とんでもないことが起こったが、子どもたちは無事に家に帰っており、安堵する。しかし、福島原発から放射能が漏れているとテレビの報道で知る。日本政府はアンダーコントロールされていると発表し、同じサービスアパートメントに住んでいる隣人(世界最大の原子力産業会社のアレヴァで働いている)のフランス人も、問題ないというため、アレクサンドラは安心する。しかし香港に住む夫からは、『とんでもないことが起きた。これはチェルノブイリだ。今すぐ香港に来い』とスカイプが届く。元々香港で友だちとパーティーに行く予定であった子どもたちも、早く香港に行きたいと言い出す。日本政府とアレヴァの技術者の言葉を信じたアレクサンドラは、心配する夫との間のすれ違いにより口論する。休みにも関わらず、フランス人同僚と震災の状況について打ち合わせをする。フランスの会社からは緊急帰国指示が出ていた。どうするのかと思案するアレクサンドラ。しかし、いくつかの同僚は、月曜日朝にはすでに飛行機で日本を脱出しており、最後まで残ると言っていたはずの上司も、こっそりパリに脱出していたことをアレクサンドラは後で知る。もはや業務どころではなくなっていき、次第に状況が悪化してくる。飛行機の予約はもう満席で取れず、空港もパニックだった。会社が手配するチャーター便があり、社員全員やその家族を国外に脱出をするというプランだったが、会社からは、フランス人だけしかそのチャーター便には乗れないと言われる。信頼している日本人部下たちも連れていきたいと願うアレクサンドラだが、日本人部下は東京に残ると言う。落ち着いていた外国人同僚達も、原発が爆発する映像を見て、避難を決意する。彼らがフランスに入国するビザを取るために、神楽坂のフランス大使館に行くが、大使館自体も緊急閉鎖しており、プランも進まない。アレクサンドラは取り乱してしまう。そんな中、隣人のアレヴァ社員も状況の悪さにイライラがつのるようになってくる。ついに原発4号機は爆発し、5時間以内に東京に放射能雲が来ることになった。アレヴァの社員は最後に『想定外だ。エアコンの電源を落とせ。窓の隙間をテープで塞げ。そして、僕の家族の世話をしてくれていたフィリピン人メイド達とともに京都へ行ってくれ』と言い残し、仙台に向かう。飛行機脱出を考え、会社へパスポートを取りに行くアレクサンドラ、しかしそこには……。 ■感想 細かなところが良くできている。実際に東日本大震災は金曜日に起こり、次の日は土日だった。映画でも震災の次の日は土日になっている。一方、1号機、3号機の爆発、そして天皇のビデオメッセージの時系列が若干違っていた気もする。映画内で使用されるテレビの映像は、全て実際に日本のテレビで当時放送されたものだ。昔の菅直人首相も登場する。アレヴァの社員が登場し、かつ彼の発言が主人公の判断に影響を与えている。アレヴァが登場してくるところに、日本人ではなく、フランス人が作った映画らしさを感じる。日本人が作る映画では、アレヴァのアの字も出てこないだろう。興味深い点として、フランス人が駐在として東京で働く場合はこんな感じになるのかというふうに感じた。高級なサービスアパートメント、隣人家族はほぼフランス人。普段のオフで関わるのは同じフランス人。オフィスでは基本フランス語。基本的にはパリ本社の意向ですべて決まる。現地日本人採用者は、明らかに一段階下の労働者側に見える。映画内には、日本への配慮もある。武士道を重んじている日本人達のように、日本人を尊敬するような部分もある。なお、原発事故に関しては、放射能雲は結局東京には来ずに、海側に消えていったことでみんな助かったということになっている。冒頭、巨大地震に襲われる描写があるが、これを見ると、外国人は日本に住みたくないと思うのではないかと思う。投資をする側からしても、未知のリスクは負えないと考えそうだ。この映画は、東日本大震災の被害や日本人の状況にはあまり触れられていない。あくまで、フランス人駐在員が震災発生以降の1週間程度どのように葛藤し、本社の意向と現地社員の間で折り合いをつけていくかに焦点が置かれており、日本人目線の映画にはなっていない。そのため、映画を見ていても、日本人としてはどこか遠くの話を見ているような気にもなる。 2022年6月現在、コロナウィルスが終焉を迎えつつあるようにみえるが、日本では、極端な円安問題・ヘッジファンドによる日本国債売り戦争が始まり、進むも引くも地獄という状況だ。地震は誰にもどうすることはできないが、経済問題や原発問題は明らかな政策失敗であり人災である。明らかに数字として貿易赤字が膨らんでいるのにもかかわらず、根拠もなく『円安は日本経済にプラスである!』と高らかに謳う国会議員を見ていると、『原発のコストは安い』と何の根拠もなく、大きな声を出していれば嘘でも本当になるというあのときと同じである。東日本大震災から10年、個人的には、資産も全て国外に移してあり、時間も金も困っていない。あの時よりも少し成長した。日本がどうなろうと、すでに逃げ切ってはいるが、故郷の動向を確認程度はする。とはいえ、特に期待はしていない。この先の日本がどうなるかは、少し考えれば誰でもわかりますからねぇ。。。。(゚A゚;)ゴクリ...
KL Car-Free Morningという名前を聞いたことはありますでしょうか?コロナ前からも開催されていたかどうかは不明ですが、Kuala Lumpur中心にある、Kuala Lumpur City Hall周辺からスタートし、KLCCで折り返して戻ってくる、全長約7kmの道を、2時間程度車が入れないようにして、歩行者・ジョギング・自転車などが自由に楽しむものであり、毎週日曜日の朝7時~9時まで行われています。 特徴を並べると、 参加は無料(事前にWebサイトから登録が必要なだけ) 道路が広く、一部凹凸のある路面もあるが、全体を通じて比較的滑らかな路面 いつもみんなが見ている都会の中心を走ることができる 折り返しの全長が7kmなので、目標が立てやすい。15kmを目指すなら2周、20kmを超えたいなら3周すれば良い(たまにKLCCに行くまでのルートが閉鎖されていることもあります) 多くの参加者がいるため、企業の協賛も多く、スタート地点やKLCC周辺では、無料のスポーツドリンクやパン・サンドウィッチなどが配られていることも多い。KLCC周辺は、多くの参加者が一時休憩して楽しく団らんをしている(現在はラマダン中のため、参加者は少ない) 歩行者とジョギングでの参加が一番多い。その後は、自転車、ローラーブレード、スケボー、電動スクーター、車いす、一輪車など多種多様。自転車も、多くの参加者が個人の自転車を持ち込んでいる。競技用ロードレーサーやおしゃれな自転車など様々 現地でマウンテンバイクやママチャリなどの自転車を借りることもできる(レンタル期間は、その日の9:30まで。一台20RM。事前予約などは必要ないが、貸出が完了すると借りれなくなるので、早めに来ないと在庫がなくなる可能性があるかも) 自転車をするならば、基本的にヘルメット程度は持ち込んだほうが良い。小さな自転車でもヘルメットをしている人は多い。上手下手ではなく、上手な人でも路面の段差に引っかかったり、濡れた路面で突然スリップすることはある。参加者に聞いたところでは、『腕や足の骨折などはまぁどうでも良いが、頭だと一生を棒に振る可能性がある』とのこと 7時~9時だが、実際は7時ちょうどに開始されることはない。だいたい7時5分くらいにスタートする。そして、8時過ぎくらいになると、警官によって少しずつ移動範囲が狭められますので、9時までまるまるコース全域が使用できるわけではない。実際に8時30分を過ぎると、参加者の数も次第に減ってきます さて、参加までの一連の流れを記載しましょう KL Car-Free MorningのWebサイトにアクセスします HOME ページを下に降りて、登録します 登録作業は、3分くらいで可能です。登録したからといっても、何も登録した証拠は残りません。Emailが届くわけでもないです。なので、登録完了した際には、画面上に、『登録完了しました』などの小さなウィンドウがでてくるので、それを写真にでも撮っておきましょう。 では実際に現地参加の流れを見てみましょう 現地周辺にはいくつか駐車場があります。スタート地点から遠い駐車場もあることと、警察による交通整理が始まりますので、電車で行くのが一番良いかと。Masjid Jamek駅からKuala Lumpur City Hallのスタート地点までは、歩いて3分程度ですので、ここに朝早く来るようにすればよいでしょう。 日曜日の朝早い時間は、電車にあまり人は乗っていません。逆に、明らかにランニングの服装をしている人もいますので、彼らはおそらく参加目的でしょう。 朝早いですが、駅内ではコンビニエンスストアが開いています。コース中にもコンビニエンスストアはいくつかありますが、ここで買っておくのも良いでしょう。 Masjid Jamek駅をでて、OCBC銀行側に向かいます。 すでに交通整理は始まっています。この辺まで来ると、マイクで盛り上げようとしている人の声が聴こえてくるはず。 いつものように、MySejahteraをスキャン 事前に登録したことを告げると、手首に参加者であることが分かる紙テープを巻いてくれます。この紙テープの番号は、後で何か当選することもあるようです。また、参加中にテープの有無を聞かれたことはありません。多分、登録せずに参加しても何か言われることはありませんが、時間がかかるものでもないので、登録はしておいたほうが良いでしょう。 多数の参加者が準備をしています。 ここのベンチなどで、座りながら準備をするのも良いでしょう。 トイレは、Kuala Lumpur...
『私の住む街には、Pavilionのような大きなショッピングモールはないわ。だけど、海の近くには、HarbourMallというショッピングモールがあって、そこは街の人達の誇りなの』 早朝6時、古波蔵佑はタワウのホテルで目を覚ました。朝8時からのサンダカン行きのバスに乗るためだ。オンラインから予約をする予定だったが、アプリケーションがうまく動かずに予約できなかった。郊外の街行きバスのあるバスターミナルは、街の中心部にはない。市内から10km程度離れている。なぜこんな遠くにわざわざバスターミナルを作る必要があったのだろうか。佑は、早朝の街を少し見てから、できればローカルが利用しているバスで、バスターミナルに行きたいと考えていた。その方が安いし、何よりもローカルの目線で移動することができる。朝のタワウの街はとても静かだった。しかしすでに太陽は登っていた。同じマレーシアでも最も東に位置するこのタワウは、最も西にある首都クアラルンプールも太陽が昇るのはかなり早い。一時間半ぐらい違いがある。6時はもうすでに明るく、街を歩く人の姿も見えた。しかし、それは逆に暗くなるのも早いことを意味する。少し街を散策したところ、あまり大きな違いはないなと感じたから、佑はバスターミナルに戻った。ここはそんなに都会ではない。飲食店もそんなに朝早くから開いているわけではない。ましてやパンデミック中なのだ。とりあえず市内のバスターミナルに行き、始発のバスが何時かどうかを調べてみよう。行先が郊外向けバスターミナル方面になっているバスの場所は分かったが、何時に出発するかを聞いてみると、早くて7時40分発だった。それではとてもじゃないが、サンダカン行きのバスに間に合わない。やはりタクシーを使うしかない。ローカルバスには乗れないのは仕方ががないが、市内のバスターミナルの近くのお店は、朝早い時間に行き交う人々のためのお店がいくつか開いている事に気がついた。マレーシアのお饅頭のようなお菓子をいくつか買って、タクシーを呼んだ。タワウともお別れだ。10キロほど離れたバスターミナルへ向かう。ドライバーはとてもよく喋る男だった。兄弟はクアラルンプール周辺に住んでおり、彼だけがタワウに残っている。 『タワウはもともとのサバ出身の人達や、インドネシア・フィリピンの文化が混ざりあっていて、マレーシア半島のような人種による問題等は起こっていないよ。ここはいいところだよ』 ドライバーはそう言っていた。朝からいろんな話ができたドライバーに、Have a nice day!と伝えた。さあバスターミナルに着いた。なんでこんな遠いところにバスターミナルを作ったんだろう。不便なこと極まりない。ほとんど工業地帯の中にぽつりとバスターミナルがある。バスの発車時刻の8時までは、まだ時間は1時間ぐらいあった。とりあえずチケットを買おう。バスのチケット売り場には多くの人が並んでいた。タワウからサンダカンまでは、362キロあった。価格は47リンギットだった。正規料金ではあるが、6時間程度のバスで、47リンギットはずいぶん高く感じる。なぜかというと首都クアラルンプールから人気の観光地ペナンまでは約5時間程度だ。1時間程度短いとはいえ、30リンギット以下でもバスチケットは売られている。こっちは6時間で1時間ほど長いといえども、価格が20リンギットぐらい違う。ずいぶん金額が高いなと感じたが、クアラルンプール – ペナン間のような、多くの人々がたくさん利用するような路線と、こういう田舎の路線では、この価格の差は仕方がないことなのかもしれない。ちなみに、オンラインでチケットを購入すると、この47リンギット+システム利用料の7リンギットがかかる。利用料が追加でかかるとしても、事前に購入しておいたほうが安心感はある。バスのチケットを購入したあと、佑は広いバスターミナルを見て回った。広いバスターミナルとは合わないほどに、乗客や利用者の数は多くはなかった。朝食を食べる軽食屋があり、いくつかの人たちが朝ごはんを食べている。ご飯を食べているのは人間だけではない。軽食屋の店員があげているのだろう。猫もいる。働かないのにも飯や水をもらえるとは、よい身分だ。ご飯を食べて落ち着いた猫は、身繕いを始めた。どこに行こうと、猫はいる。バスのドライバーの声が聞こえる。サンダカン行きのバスへの乗り込みが始まった。サンダカン、それは、佑がずっと行きたかった場所であった。 サンダカンへの道は遠かった。朝早く出発するバスに乗り、6時間かけてじっくりサバ州の景色を見る予定であった。しかしその予定は当てが外れた。実際に見てみると、目に見える景色はパームオイルばかりだった。緑色の景色は悪くはないが、商業主義が目についた。美しい景色なんて言うものはほとんどなかった。朝8時から、午後2時くらいまで、同じ様な景色が続いた。強いていえば、マレーシア半島側のパームオイル農園を管理する企業と、サバ州内のパームオイル農園を管理する企業の名前や看板が少し違うだけだった。途中で、警察による検問があった。不法侵入者をチェックするポイントだ。通常は警察が、通行者のパスポートをチェックするポイントのはずだが、実際に警察がチェックしていたのはパスポートではなく、MySejahteraアプリを見て、ワクチンを接種しているかどうかを確認するだけだった。だから警察は、『ワクチンパスポート!ワクチンパスポート!』と言っていたのだ。パスポートよりも、ワクチン接種したかどうかに価値がおかれていた。佑は、世の中はよくわからない方向へ動いていると感じた。バスは一度だけ休憩した。ご飯休憩ではなく、10分程度のトイレ休憩だった。コタ・キナバル行きとサンダカン行きに枝分かれしている交差点を、右に回ったあとは、1時間ほどでサンダカンバスターミナルに着いた。まあ長い旅だった。サンダカンバスターミナルは、これも市内中心部から少し離れたところにあった。 バスターミナルは市内から離れていたが、そう遠くはなかった。タクシーアプリを使えば、5RM程度と安い値段で十分に行き来ができる範囲だ。まだ時間があったので、宿に向かう前に、佑は観光地であるアグネス・キースの家へ向かった。 アグネス・キースは米国人であり、イギリスの旦那さんがボルネオ島に赴任になった時に、同行して、そのままサンダカンに住んでいた。そのアグネス・キースが住んでいた家が観光地になっていた。ボルネオ島での暮らし、旧日本軍がサンダカンに来た時に勾留された時の内容を記載した小説が出版されている。実際に日本語での本の出版もされているようで、コタ・キナバルの書店で販売されているらしい。ただし、佑は戦争の歴史には興味があったが、この観光地よりも、この家に来る前に見えた海の景色に心を奪われていた。このアグネス・キースの家は丘の上にある。丘の上からの海の見える景色が、とても美しかった。これを見るために6時間かけてここに来たと言っても、何もおかしくはない、佑はそう思った。 すぐ隣には、English Tea House & Restaurantという有名なレストランがあった。バックパッカーの佑には似つかわしくなかったかもしれない。が、せっかく来たのだ。コーヒーを飲んでみたかった。よく見ると、欧米人の集団が近くのテーブルに座っていた。やっと観光業が始まったようにも見えた。懐かしい雰囲気だと思った。そういえば、昨日タワウのナイトマーケットで出会ったJohanは、ペナンに住んでいるオーストラリア人達と少し前に一緒に飲んだと言っていたのを佑は思い出した。もしかしたら彼らだったのかもしれない。丘の上から、何度も海を見た。サンダカンの海。海が見える街だ。美しい海岸線があるわけではない。丘の上から海が見える、それだけで、佑は胸が動いた。佑は、本日の宿のHotel Sandakanへ向かった。サンダカンは、漢字では、『山打根』と記載する。 日本人でも、サンダコンと読むことはできるだろう。そんなことを考えている間にHotel Sandakanに着いた。なぜかホテルに行ったら部屋が空いてなかったので、アップグレードして、ファミリールームになってしまった。泊まるのは佑1人しかいないのだが、ベッドが3つもある。 あまりにもアップグレードされすぎだと感じたが、不便はない。カーテンを開けたら、海が見えた。佑の心は華やいだ。ホテルのミネラルウォーターを飲み、かばんを置いて、サンダカンの街に出た。サンダカンの街は、タワウに比べて華やいでいた。広くはないが、狭い範囲に多くのお店が並んでおり、活気があった。サンダカンの商店の看板のデザインは、他国の有名なキャラクターを真似て流用したようなデザインの看板が多かった。日本のドラえもんや漫画のワンピース、映画のGhostbustersであるとか。海に向かうにつれて、更に街は活気づいてきた。Harbour Mallというショッピングモールが見えた。 田舎のショッピングモールに期待はしていなかった。しかし、その期待を裏切るものだった。Harbour Mall周辺は人が多く、ショッピングモール内も、きれいで多くのお店がモダンなものだった。活気あるショッピングモール内にいると、友人の言葉が思い出された。 佑は安心した。佑はあまり田舎が得意ではない。何もない場所は退屈にさせる。空白の時間ができることを、佑は嫌う。その意味では、佑は落ち着いた生活はできない性格だ。Harbour Mall周辺には市場があったが、夕方ではすでに多くのお店は閉まっていた。人が多く密集したこのエリアは、時に治安の悪さも感じさせた。狭い通り、ごみごみしたスーパーマーケット。佑はこういう雰囲気に離れているので、あまり気にならない。むしろ、こういう雰囲気のほうが佑にとってはある種の落ち着きを感じさせていた。 Fat Catというパン屋が、この狭いエリアに数店舗あることに気がついた。せっかくなので、どら焼きを買った。後で分かったが、Fat Catは、サンダカンに初めてできたパン屋の様で、多くの人々に利用されているらしい。実際食べてみると普通の味だが、地元の人の誇りであることはすぐに分かった。 ヒジャブを被っているとはいえ、フィリピンから来ている人も多い街のようだ。インドネシア人はマレー語を比較的近い発音で話せるようだが、フィリピン人はRの音に少し違いが出るようで、ローカルの人からすると分かるらしい。いろいろ散策をしていたら、だんだん夕陽の時間が近づいてきた。港街に来たからにはやっぱり夕日が見たかった。事前に調べていたが、Nak Hotelというホテルの最上階にRooftop Barがある。名前は、Balin Roofgarden Bistro & Bar。日が落ちるのは、夕方6時ぐらいだ。夕日を見るために目的の場所に行くときは、ハラハラする。間に合わせたいという想いは、旅人を焦らす。今は夕方5時半だ。少し足を早めよう。最初は違うバーに入ってしまった。問題ないとは思うが、サンダルでRooftop Barに入れるかどうかもはっきりしない。ぎりぎり間に合って着いたそのバーでは、少し夕日が落ちかけていた。ローカル中国系と思われる人達が、子供たちも含めて席を取ってみんなで写真撮影を楽しんでいた。確かにおしゃれなバーだから、写真スポットにもなるだろう。佑はお酒を頼んだ。この旅で最初のビールだ。暮れゆく夕日を眺めていると、あの歌が頭に出てくる。 僕はサンダカンにいるんだ。日が落ちた後のサンダカンを歩いてみる。夜の雰囲気はまた変わってくる。あれだけ人がいた街も、夜7時になると人の姿もめっきり減って、多くの店が閉まっていた。とはいえ、海沿いにあるレストランはまだ人が多くいたので、そんなに暗いわけではない。佑は海沿いのレストランでご飯を食べた。街中は人が少し減ったぐらいでそんなに雰囲気は変わらないが、なぜか夜遅くなると、先程の賑やかであったHarbour Mall周辺に、おばちゃん達がずらっと並んで椅子に座っていた。佑は何をしているのかと見てみると、女性達はタバコを売っている。近くによると、袋から、普段のお店では見れないようなブランドのタバコを売っていた。タワウにいた頃から気づいていたが、サバ州の人たちは、普通のコンビニエンスストアや商店で販売されているような、Dunhillのような正規のタバコを最初からあまり持っていない。飲食店のテーブルに置いてあるタバコを見ても、見慣れないようなブランドのものを吸っている。単純に政府管理されていない違法タバコということだ。しかし違法とはいえ、誰もが吸っている。この手のタバコは、マレーシア半島にもいくらでもある。政府の税収が下がることと、British American Tobaccoなどのタバコメーカーからすると儲からないという欠点はあるが。おばちゃんが声をかけてきたから、知らないふりをして話を聞いてみた。佑は忘れていた。この街でも英語は通じない。タバコを買わないかと言っているのは分かる。How...
ほぼ定刻の9:30に、飛行機はタワウ空港に降り立った。 飛行機から見えた景色は、一面が緑だった。山の緑色だけではなく、ときおり等間隔に整列された木も見える。パームオイルの木だ。ここマレーシアでは、パームオイルの実から取れる油を輸出することが一大産業だ。ここタワウのあるサバ州だけではなく、他の州もどこでも、国土の多くの場所にパームオイルが植えられ、農園ができている。一度植えれば、あとは果実が育つのを待つだけだ。育った実を収穫するのは、破れたシャツを身にまとい、汗を流しながら刺又を手に持つ外国人労働者だ。暑いなか厳しい労働を行うのは、ローカルマレーシア人ではない。周辺国のインドネシアやフィリピンから、低収入でかき集められている。大きく育ちすぎたパームオイルの木は、焼かれ、また新たに新しい木を植えられる。その繰り返しだ。このマレーシアの大地の数十%はパームオイルに利用されている。飛行機が降下中に、古波蔵祐(こばくらたすく)は、そんな事を考えていた。飛行機は70%くらい席が埋まっていた。Covid19によるパンデミックが始まって以降、自由に旅行をすることはできなくなった。飛行機に乗ることも簡単ではなくなった。米国ファイザー社がコロナワクチンを開発して以降、世界中でワクチン接種が始まった。他の製薬企業も、その波に乗り遅れまいとワクチン開発を勧めた。ワクチン接種した者のみが、飛行機に乗ることができる。佑もワクチン接種した一人だ。佑だけではない、この飛行機に乗っている他の乗客もそうだ。 タワウ空港は小さな空港だ。乗客は飛行機から降ろされ、歩いて空港に入る。中に入るとスタッフが、マレーシアのコロナ追跡アプリケーションMySejahteraをチェックしてワクチン接種済かどうかのチェックをしている。空港スタッフはパスポートをチェックしているのではない。ワクチン接種済みかどうかのほうが重要のようだ。ちなみにサバ州は連邦政府から独立した行政権を持っており、外国人やマレーシアの他の州に住む人々は、サバ州入国時には入国審査を受けるようになっている。入国審査場に着くと、乗客のほとんどはローカルマレーシア人であり、外国人は佑だけだった。そのため佑だけは、外国人専用レーンに並ぶことになった。外国人専用レーンに並んでいるのは佑だけであった。しかしそれは、かえって良かった。外国人専用レーンには、他の人が全然並んでいないため、列に並んで待つ必要がなかった。実はサバ州に入る時の入国審査は少し不安があった。なぜかというと、マレーシアでは州によって入国の基準を自由に変えることができる。そしてCovid19のパンデミック以降は、州によって全く異なる入国基準を持っていることがある。サバ州もそのひとつだ。サバ州はマレーシアの中では最も国境を開けるのが遅かった。先月まではマレーシアにずっと居住している外国人すらも入る事が許されなかった。(なぜかローカルマレーシア人の入国は許可されていた)しかし今月に入ってからマレーシアに住む外国人も入国を許可された。そして入国時にCovid検査は必要ないということに変わったという記事がでてきた。しかしそれが実際にそうなっているのかどうかは実際に来てみないと分からない。そのため、佑は事前にサバ州のツーリズムデスクに問い合わせをしていた。サバ州のツーリズムデスクに聞いたとおりに手続きを行っていれば、入国は問題ないはずだ。誰かが言っていたとか、新聞で記事を見たとかでははっきりしないが、サバ州のツーリズムデスクが言ったことに沿って行動をしていれば、例え問題が起きて入国拒否されても、戦える材料はある。ツーリズムデスクからの回答はたったひとつだった。サバ州のウェブサイトから、入国の申請をしてください。それだけだった。実際に入国審査は非常にスムーズだった。2,3分程度で終わった。全く問題なく入国ができた。やっとサバ州に入ることができた。そう感じた。実際にはおそらく業務としては、飛行機でクアラルンプールから出発する前にすでにチェックが行われていたと感じた。実際に入国時に問題がありそうであれば、飛ぶ前に拒否されていると思った。なぜならばAirAsiaの航空券は、スマートフォンのアプリ上に保存されていた。本来はわざわざカウンターで、航空券をプリントアウトする必要はなかった。しかし、空港のスタッフから、『サバ州の場合は、空港のカウンターの方でチェックをした上、あえてプリントアウトする必要がある』と言われた。その時はめんどうなものだ、と感じたが、おそらくその際にチェックをされてたんだと思われる。この乗客はワクチン接種済みであるかどうか?、サバ州入国可能であるかどうか?。どちらにせよずっと入りたかったサバ州タワウに、佑は入ることができた。入国審査を終えて、やっと入れたその空港は小さかった。荷物は小さなバックパックだけだ。佑は、数日だろうが数ヶ月だろうと、小さなバックパックだけで旅行をする。荷物受け取りにも並ばずに、すぐに空港の出口に向かった。いつものわくわくする瞬間が戻ってきた。ゲート出ればそこは、もうタワウだ。初めて来る場所。懐かしいこの感じ。パンデミック前はどれだけこの感覚を味わっただろう。2年近くこういう感覚が味わえなかった。懐かしい雰囲気だ。ゲート前には多くのタクシードライバーが旅人を待ち構えている。到着して家族と出会っている乗客もたくさんいた。 タワウ空港からタワウの街へは便数は少ないが、バスがあると聞いていた。しかし実際に来てみると、もうバスはなくなっていた。おそらくパンデミックの影響で、バスは運行を取りやめてしまったのだろう。観光客が来ないならば、しかたないだろう。空港周辺で何人かに聞いてみたが、やはりバスは無いようだった。佑はスマートフォンを手に取り、Grabアプリを開いた。タワウ空港からタワウの街まで約30キロ程度だ。ドライバーはすぐに見つかった。さぁ行こう。久々の旅が始まる。ドライバーは無口な男だった。空港から街まで、この田舎の風景を見ながら向かった。緑とパームオイル、その景色の中心には、道が一本だけある。それが目に入る景色だった。ドライバーは無口な男だったが、街に近づくにつれて話を始めた。少し前まで、サバ州の州都コタ・キナバルで働いてたようだ。そして故郷のタワウに戻ってきたが、賃金はもう本当にタワウは安くて、この街は本当に何もない。そう言っていた。話をしていて思ったが、あまり英語が上手ではなかった。このタワウはマレーシアの首都クアラルンプールから最も遠い場所にある街だ。 ホテルに着いた。Marco Polo Hotelと言う比較的大きなホテルで、地元では有名なホテルのようだ。確かにホテルの外観はなかなか良い。しかし、中はすごく古めかしかった。ホテルの部屋もソファーのカバーもベッドのシーツもいまいち余りきれいとは言えなかった。しかしホテルのスタッフはとてもホスピタリティがあってフレンドリーだった。チェックインを済ませ落ち着いた後、外に出た。明日の朝早く、サンダカンに旅立つので、バスチケットを買う必要があった。そのため、ホテルスタッフに事前に聞いていた、バスターミナルに向かった。小さなバスターミナルの周辺はすごくごみごみしていた。バスターミナルはまとまりがなく、どこに何があるかさっぱり分からなかった。受付場所も、看板もない以上、座っているドライバーらしき人に聞くしかない。タワウに来て気づいたが、多くの人は、マレーシア半島のように英語が堪能ではない。ドライバーらしき男も、そのうちの一人だった。 『明日の朝サンダカンに行きたいんだが、どこでチケットを買えるんだ?』 『マレー語は話せるか?』 『Satu Satu Dua Dua Jalan Jalan Makanだけだ』 佑もドライバーも両方困った。ドライバーは、ちょっと待ってくれとジェスチャーをし、知り合いに電話連絡をしてくれた。何がどれだけ伝わっているのか分からなかったが、まだ急がないといけない時間ではない。任せてみた。 『知り合いから直接連絡をさせるので、連絡先を教えてくれ』 佑は連絡先を交換した。 タワウの街は、ローカルマレーシア人と、インドネシアのスラウェシ島からやってくるBugisという民族が多く居住している街だ。そういえば、佑が昔スラウェシ島のマカッサルに行った時に、この島にはBugisという民族がいて、その民族はお金持ちが多いという話を聞いたことがあった。佑は、過去に聞いたことがある話の答え合わせをしているような気分だった。面白いのは街の商店の看板だ。マレー語では商店のことを、KEDAIと言うが、インドネシアでは商店のことを、TOKOという。ここはマレーシアなので本来はKEDAI○○という看板しかないはずだが、ここタワウにはTOKO○○やKEDAI○○と両方のお店があり、並んで立っている非常にユニークな光景が見えた。 しかしここは国境の街でもあって、フィリピンにも近い。結構多くの人がタバコを吸っていた。佑はタバコは吸わないが、旅に出ている時はたまにタバコを吸うことがある。小さな商店でタバコを一本だけ買う時に、近くにいるローカルマレーシア人かインドネシア人かどうか分からない男に聞いてみた。 『何のタバコを吸っているの?何か見た事ないタバコだね』 『あぁ、これはフィリピンのタバコだね』 なるほど、文化が混ざっているのだ、このタワウの街は。マレーシア、インドネシア、フィリピンの、それぞれの文化のいいとこ取りをしているのだ。タワウの街のすぐ近くに、Sebatik島というところがあるようだ。この旅の途中、佑は何人かにその島の名前を聞かれた。その島に渡れば、すぐにインドネシアの国境に行けるようだ。パンデミック前は、インドネシア人も普通にイミグレを通過せずに、船でタワウに入ったりしていたようだ。しかし、さすがにパンデミック中は、国境の警備隊が監視しているようでそれはできなくなっているようだ。つまり、不法入国は誰も気にしないが、コロナの蔓延は良くないということなのだろう。まぁ、別にそんな気にするような大きな話ではない。佑は少しお腹が減っていた。地元の人で賑わっている、少しおしゃれなお店に入ってみた。とはいえ、ぶらりと入っていったわけではない。佑は事前に食べたい店を調べている。計画的だ。家を設計をする時は、設計士は、2度木を切っていると聞いたことがある。一度目は設計時に、二度目は実際に木を切るときだ。それとよく似ている。佑もすでに、計画時に一度店を訪れている。インドネシアといえばアボガドジュースだ。昔何度もインドネシアを訪問した際に、インドネシアのアボガドジュースは安くて美味しいことを知っている。待てよ、ここはマレーシアだぞ、インドネシアではない。なぜ佑は、ここがインドネシアだと思っているのだ。 佑がタワウにきた理由の1つとして、このタワウは数百人の日本人が約100年ぐらい前に住んでいたこともある。戦前の日本の資本家がタワウにやってきて、ゴムの農園などを開拓していた。その資本家が出資した農園で働くローカルの人が、当時たくさんいた。その時の名残がこのタワウには通りの名前として残っている。その1つが街の中心を貫く大きな通りの1つ、Jalan Kuharaだ。現在はもう名前しか残っていないだが、ローカルの人は日本人の名前だということを知っていた。佑は看板以外に何もないことが分かっていても、その通りを見てみたかった。タクシーを使うには短すぎた。佑は歩くことを選んだ。Jalan Kuharaの次はJalan Dr Yamamotoだ。これは農園で働く医師の名前が山本だったようだ。おそらく農園で働いていた昔の人達が何か病気があった時に山本に会いに行こう!そうなっていたようだ。 次は、Jalan Nissan Nourinだ。日産自動車の母体となる会社の一つがここにあったようだ。ゴム農林を経営していたらしい。そして最後の一つは、Jalan Kubota。ここは非常に大きかった。通りの名前だけでなく、若い人で賑わう広場そのものにKubotaの名前が付けられていた。Kubota Squareだ。Kubota Sentralもあった。今風のおしゃれなカフェやレストランがあったり、オフィスタワーもあった。紛れもなく、ここはタワウの中心地であった。 佑も、これはさすがにびっくりした。100年も前にこの地に日本人がいて、その歴史は未だに残っていた。名前だけだけども。 WhatsAppに、見知らぬ番号から連絡が入っていた。Weiganと名乗る男だった。マレー語のメッセージが届いていた。あのバスのドライバーの件だろう。佑は英語で返したが、数分後、こう返信が届いた。 『英語が分からないので、マレー語で頼む』 佑が翻訳して、返信をする。すぐにマレー語で返信が届いた。 『サンダカンまでのチャーターが可能だ。私は信頼できるドライバーだ。片道450RMでどうだ』 佑は呆れと怒りが混じった感情に囚われ、メッセージを見た瞬間に返信した。...