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マレーシアで猫と犬の世話のボランティアの薦め @SPCA Selangor

          皆さん、何かボランティアはしていますでしょうか? また、なにか社会と関わりたいとか、社会に役立つための行動をしたいと思っていますか? 僕は何かをしたいとはずっと考えていましたが、長い間、いまいち見つかりませんでしたが、猫が好きなので、保護された猫や犬の世話をするボランティアを長く行っています。 もしかしたら、同じようなことを探されている方もおられるかもしれませんので、ちょっとブログにすることにしました。   マレーシアにもいろんなボランティア活動をしている団体がいて、代表的なものは、Soup Kitchen(スープキッチン)でしょう。スープキッチンとはいわゆる炊き出しのことで、貧しい人・困ってる人に無料で食事を提供する活動のことです。多くの場合は、その団体が寄付を募って、食事を大量に調理して特定の場所で配布したり、もしくは、大手ホテルなどと提携して、余った食材を寄付してもらうようにしているところもあるでしょう。 マレーシア国内では、おそらく20を超える団体がいて、参加しようと思えば外国人でも参加できるでしょう。 僕もマレーシア地場のスープキッチンに参加したことがあります。とはいえ、基本的にスープキッチンに関しては、マレーシア語が話せるともっと活動の幅が広がるなぁと感じたものです。 僕は猫が好きなので、猫のボランティアに参加することにしました。時間があるときに訪問して、猫の世話をするようにしています。猫の世話に比べてタスクは少ないですが、犬の世話もできます。 マレーシアで代表的な猫のボランティアセンターとしては、SPCA Selangorでしょう。参加してから1年半以上経っていますので、なんとなくいろんなことが見えてきています。他の動物保護センターには行ったことがないのですが、他の動物保護センターに行ったことがある友人の話と比較しても、このSPCAはしっかり運営されていて、猫や犬の世話も手厚いことが分かってきましたので、紹介しても良いかなと思っています。 なお、同じSPCAでも、地区が違うと運営状況や、運営費用を支払っている個別のスポンサーも異なると思いますので、SPCA Singaporeや、SPCA Penangが同じ状況かどうかは全く分かりません。本記事は、SPCA Selangorについてのものです。       目次【本記事の内容】 1.SPCA Selangorとはなにか?  1-1.SPCA Selangorのボランティア参加方法  1-2.実際のボランティア作業の流れ 2.まとめ     SPCA Selangorとはなにか?   SPCA Selangorは、Ampangにある、猫と犬の保護施設です。 最寄り駅は、LRT Ampangか、LRT Ampang...

1942年3月18日に日本軍がマレーシアのTitiという小さな村で起こした大虐殺事件(慰霊碑地図付)

    まずは、下記を一度読んでほしい。       マレーシアに住み始めてから8年程度経ち、多くの場所を訪れたが、どこにあるのかが分からない場所が1つあった。 「昔、日本がマレーシアを統治していた頃、日本軍が一つの村の村人達を全員殺害し、証拠隠滅のために村中に火をつけた……」という話を聞いたことがあったのだが、本当かどうかも分からなかったし、その場所自体の情報も少なく、長い間分からなかった。 特に東南アジアではこういう話は多い。インターネットで探して見つかるものもあるし、ローカルの方から、このあたりで昔日本軍が多くの人を殺害したんだと突然言われることもある。 旅行先に日本軍関連の史跡がある場合は、個人的にもよく足を運んだ。インドネシアやフィリピンもそうだが、マレーシア国内にも日本軍関連の史跡は多い。     今回、その村の場所がわかった。 首都クアラルンプールから70km離れたところにある、Titi(中国語では知知)だ。     香港の英字新聞 South China Morning Post の記事を読んだことで判明した。下記引用。   ※South China Morning Postの記事は、パソコン上のブラウザで開くと有料会員以外は先が読めないが、実は会員でなくてもスマートフォンのブラウザで開く際には先が読めることが多い     On March 18, 1942, the Japanese army rounded up 1,474 men, women and children...

福島原発事故時に東京で勤務をしていたフランス人駐在員の葛藤を描く映画 Tokyo Shaking を見てきた

Mid ValleyのGSCで、非常に短い期間限定で興味深い映画をやっているのを見つけた。実際には、5日間くらいしか上映しておらず、1日に1度上映するのみ。KLでの上映が終われば、ペナンやジョホールでも少し上映されるようだ。興味深い内容だが、そんなにヒット映画でもないので、実際にこの映画を見る日本人はほぼいないだろう。日本人は当時のことを忘れることはないと思うが、フランス人がどのようにこういったテーマで映画を作るのかが気になったので見に行ってきた。フランス語で英語字幕だ。字幕はあまり好きではない。映像だけでは内容を追えない。字幕も見ないといけないので、集中しづらい。お客さんは5人程度だった。おそらくローカルだったと思われる。津波の映像が流れるので、見れない人もいるだろう。ちょっとツイッターに書くだけにするつもりだったが、文字数が多すぎになりそうなので、ひさびさのブログにしてみた(^o^) ポスターはこちら ■あらすじ 投資銀行クレディ・フランスのリスク担当として日本支社に駐在するフランス人アレクサンドラは、夫は香港で働き、自分と2人の子供は東京に住んでいる。高級なサービスアパートメントに住み、現地ローカル日本人よりも遥かに高い生活レベルを送っている。3月11日、信頼している部下に解雇通知をする辛い場面中に、大震災に遭遇する。何事もなかったと思ったのもつかの間、テレビで津波の映像が流れる。(これは、実際の津波の映像をそのまま使っている)とんでもないことが起こったが、子どもたちは無事に家に帰っており、安堵する。しかし、福島原発から放射能が漏れているとテレビの報道で知る。日本政府はアンダーコントロールされていると発表し、同じサービスアパートメントに住んでいる隣人(世界最大の原子力産業会社のアレヴァで働いている)のフランス人も、問題ないというため、アレクサンドラは安心する。しかし香港に住む夫からは、『とんでもないことが起きた。これはチェルノブイリだ。今すぐ香港に来い』とスカイプが届く。元々香港で友だちとパーティーに行く予定であった子どもたちも、早く香港に行きたいと言い出す。日本政府とアレヴァの技術者の言葉を信じたアレクサンドラは、心配する夫との間のすれ違いにより口論する。休みにも関わらず、フランス人同僚と震災の状況について打ち合わせをする。フランスの会社からは緊急帰国指示が出ていた。どうするのかと思案するアレクサンドラ。しかし、いくつかの同僚は、月曜日朝にはすでに飛行機で日本を脱出しており、最後まで残ると言っていたはずの上司も、こっそりパリに脱出していたことをアレクサンドラは後で知る。もはや業務どころではなくなっていき、次第に状況が悪化してくる。飛行機の予約はもう満席で取れず、空港もパニックだった。会社が手配するチャーター便があり、社員全員やその家族を国外に脱出をするというプランだったが、会社からは、フランス人だけしかそのチャーター便には乗れないと言われる。信頼している日本人部下たちも連れていきたいと願うアレクサンドラだが、日本人部下は東京に残ると言う。落ち着いていた外国人同僚達も、原発が爆発する映像を見て、避難を決意する。彼らがフランスに入国するビザを取るために、神楽坂のフランス大使館に行くが、大使館自体も緊急閉鎖しており、プランも進まない。アレクサンドラは取り乱してしまう。そんな中、隣人のアレヴァ社員も状況の悪さにイライラがつのるようになってくる。ついに原発4号機は爆発し、5時間以内に東京に放射能雲が来ることになった。アレヴァの社員は最後に『想定外だ。エアコンの電源を落とせ。窓の隙間をテープで塞げ。そして、僕の家族の世話をしてくれていたフィリピン人メイド達とともに京都へ行ってくれ』と言い残し、仙台に向かう。飛行機脱出を考え、会社へパスポートを取りに行くアレクサンドラ、しかしそこには……。 ■感想 細かなところが良くできている。実際に東日本大震災は金曜日に起こり、次の日は土日だった。映画でも震災の次の日は土日になっている。一方、1号機、3号機の爆発、そして天皇のビデオメッセージの時系列が若干違っていた気もする。映画内で使用されるテレビの映像は、全て実際に日本のテレビで当時放送されたものだ。昔の菅直人首相も登場する。アレヴァの社員が登場し、かつ彼の発言が主人公の判断に影響を与えている。アレヴァが登場してくるところに、日本人ではなく、フランス人が作った映画らしさを感じる。日本人が作る映画では、アレヴァのアの字も出てこないだろう。興味深い点として、フランス人が駐在として東京で働く場合はこんな感じになるのかというふうに感じた。高級なサービスアパートメント、隣人家族はほぼフランス人。普段のオフで関わるのは同じフランス人。オフィスでは基本フランス語。基本的にはパリ本社の意向ですべて決まる。現地日本人採用者は、明らかに一段階下の労働者側に見える。映画内には、日本への配慮もある。武士道を重んじている日本人達のように、日本人を尊敬するような部分もある。なお、原発事故に関しては、放射能雲は結局東京には来ずに、海側に消えていったことでみんな助かったということになっている。冒頭、巨大地震に襲われる描写があるが、これを見ると、外国人は日本に住みたくないと思うのではないかと思う。投資をする側からしても、未知のリスクは負えないと考えそうだ。この映画は、東日本大震災の被害や日本人の状況にはあまり触れられていない。あくまで、フランス人駐在員が震災発生以降の1週間程度どのように葛藤し、本社の意向と現地社員の間で折り合いをつけていくかに焦点が置かれており、日本人目線の映画にはなっていない。そのため、映画を見ていても、日本人としてはどこか遠くの話を見ているような気にもなる。 2022年6月現在、コロナウィルスが終焉を迎えつつあるようにみえるが、日本では、極端な円安問題・ヘッジファンドによる日本国債売り戦争が始まり、進むも引くも地獄という状況だ。地震は誰にもどうすることはできないが、経済問題や原発問題は明らかな政策失敗であり人災である。明らかに数字として貿易赤字が膨らんでいるのにもかかわらず、根拠もなく『円安は日本経済にプラスである!』と高らかに謳う国会議員を見ていると、『原発のコストは安い』と何の根拠もなく、大きな声を出していれば嘘でも本当になるというあのときと同じである。東日本大震災から10年、個人的には、資産も全て国外に移してあり、時間も金も困っていない。あの時よりも少し成長した。日本がどうなろうと、すでに逃げ切ってはいるが、故郷の動向を確認程度はする。とはいえ、特に期待はしていない。この先の日本がどうなるかは、少し考えれば誰でもわかりますからねぇ。。。。(゚A゚;)ゴクリ...

KL Car-Free Morningに参加しよう!

KL Car-Free Morningという名前を聞いたことはありますでしょうか?コロナ前からも開催されていたかどうかは不明ですが、Kuala Lumpur中心にある、Kuala Lumpur City Hall周辺からスタートし、KLCCで折り返して戻ってくる、全長約7kmの道を、2時間程度車が入れないようにして、歩行者・ジョギング・自転車などが自由に楽しむものであり、毎週日曜日の朝7時~9時まで行われています。 特徴を並べると、 参加は無料(事前にWebサイトから登録が必要なだけ) 道路が広く、一部凹凸のある路面もあるが、全体を通じて比較的滑らかな路面 いつもみんなが見ている都会の中心を走ることができる 折り返しの全長が7kmなので、目標が立てやすい。15kmを目指すなら2周、20kmを超えたいなら3周すれば良い(たまにKLCCに行くまでのルートが閉鎖されていることもあります) 多くの参加者がいるため、企業の協賛も多く、スタート地点やKLCC周辺では、無料のスポーツドリンクやパン・サンドウィッチなどが配られていることも多い。KLCC周辺は、多くの参加者が一時休憩して楽しく団らんをしている(現在はラマダン中のため、参加者は少ない) 歩行者とジョギングでの参加が一番多い。その後は、自転車、ローラーブレード、スケボー、電動スクーター、車いす、一輪車など多種多様。自転車も、多くの参加者が個人の自転車を持ち込んでいる。競技用ロードレーサーやおしゃれな自転車など様々 現地でマウンテンバイクやママチャリなどの自転車を借りることもできる(レンタル期間は、その日の9:30まで。一台20RM。事前予約などは必要ないが、貸出が完了すると借りれなくなるので、早めに来ないと在庫がなくなる可能性があるかも) 自転車をするならば、基本的にヘルメット程度は持ち込んだほうが良い。小さな自転車でもヘルメットをしている人は多い。上手下手ではなく、上手な人でも路面の段差に引っかかったり、濡れた路面で突然スリップすることはある。参加者に聞いたところでは、『腕や足の骨折などはまぁどうでも良いが、頭だと一生を棒に振る可能性がある』とのこと 7時~9時だが、実際は7時ちょうどに開始されることはない。だいたい7時5分くらいにスタートする。そして、8時過ぎくらいになると、警官によって少しずつ移動範囲が狭められますので、9時までまるまるコース全域が使用できるわけではない。実際に8時30分を過ぎると、参加者の数も次第に減ってきます さて、参加までの一連の流れを記載しましょう KL Car-Free MorningのWebサイトにアクセスします HOME ページを下に降りて、登録します 登録作業は、3分くらいで可能です。登録したからといっても、何も登録した証拠は残りません。Emailが届くわけでもないです。なので、登録完了した際には、画面上に、『登録完了しました』などの小さなウィンドウがでてくるので、それを写真にでも撮っておきましょう。 では実際に現地参加の流れを見てみましょう 現地周辺にはいくつか駐車場があります。スタート地点から遠い駐車場もあることと、警察による交通整理が始まりますので、電車で行くのが一番良いかと。Masjid Jamek駅からKuala Lumpur City Hallのスタート地点までは、歩いて3分程度ですので、ここに朝早く来るようにすればよいでしょう。 日曜日の朝早い時間は、電車にあまり人は乗っていません。逆に、明らかにランニングの服装をしている人もいますので、彼らはおそらく参加目的でしょう。 朝早いですが、駅内ではコンビニエンスストアが開いています。コース中にもコンビニエンスストアはいくつかありますが、ここで買っておくのも良いでしょう。 Masjid Jamek駅をでて、OCBC銀行側に向かいます。 すでに交通整理は始まっています。この辺まで来ると、マイクで盛り上げようとしている人の声が聴こえてくるはず。 いつものように、MySejahteraをスキャン 事前に登録したことを告げると、手首に参加者であることが分かる紙テープを巻いてくれます。この紙テープの番号は、後で何か当選することもあるようです。また、参加中にテープの有無を聞かれたことはありません。多分、登録せずに参加しても何か言われることはありませんが、時間がかかるものでもないので、登録はしておいたほうが良いでしょう。 多数の参加者が準備をしています。 ここのベンチなどで、座りながら準備をするのも良いでしょう。 トイレは、Kuala Lumpur...

サバ州旅行 北へ!サンダカン編 Vol.1

『私の住む街には、Pavilionのような大きなショッピングモールはないわ。だけど、海の近くには、HarbourMallというショッピングモールがあって、そこは街の人達の誇りなの』 早朝6時、古波蔵佑はタワウのホテルで目を覚ました。朝8時からのサンダカン行きのバスに乗るためだ。オンラインから予約をする予定だったが、アプリケーションがうまく動かずに予約できなかった。郊外の街行きバスのあるバスターミナルは、街の中心部にはない。市内から10km程度離れている。なぜこんな遠くにわざわざバスターミナルを作る必要があったのだろうか。佑は、早朝の街を少し見てから、できればローカルが利用しているバスで、バスターミナルに行きたいと考えていた。その方が安いし、何よりもローカルの目線で移動することができる。朝のタワウの街はとても静かだった。しかしすでに太陽は登っていた。同じマレーシアでも最も東に位置するこのタワウは、最も西にある首都クアラルンプールも太陽が昇るのはかなり早い。一時間半ぐらい違いがある。6時はもうすでに明るく、街を歩く人の姿も見えた。しかし、それは逆に暗くなるのも早いことを意味する。少し街を散策したところ、あまり大きな違いはないなと感じたから、佑はバスターミナルに戻った。ここはそんなに都会ではない。飲食店もそんなに朝早くから開いているわけではない。ましてやパンデミック中なのだ。とりあえず市内のバスターミナルに行き、始発のバスが何時かどうかを調べてみよう。行先が郊外向けバスターミナル方面になっているバスの場所は分かったが、何時に出発するかを聞いてみると、早くて7時40分発だった。それではとてもじゃないが、サンダカン行きのバスに間に合わない。やはりタクシーを使うしかない。ローカルバスには乗れないのは仕方ががないが、市内のバスターミナルの近くのお店は、朝早い時間に行き交う人々のためのお店がいくつか開いている事に気がついた。マレーシアのお饅頭のようなお菓子をいくつか買って、タクシーを呼んだ。タワウともお別れだ。10キロほど離れたバスターミナルへ向かう。ドライバーはとてもよく喋る男だった。兄弟はクアラルンプール周辺に住んでおり、彼だけがタワウに残っている。 『タワウはもともとのサバ出身の人達や、インドネシア・フィリピンの文化が混ざりあっていて、マレーシア半島のような人種による問題等は起こっていないよ。ここはいいところだよ』 ドライバーはそう言っていた。朝からいろんな話ができたドライバーに、Have a nice day!と伝えた。さあバスターミナルに着いた。なんでこんな遠いところにバスターミナルを作ったんだろう。不便なこと極まりない。ほとんど工業地帯の中にぽつりとバスターミナルがある。バスの発車時刻の8時までは、まだ時間は1時間ぐらいあった。とりあえずチケットを買おう。バスのチケット売り場には多くの人が並んでいた。タワウからサンダカンまでは、362キロあった。価格は47リンギットだった。正規料金ではあるが、6時間程度のバスで、47リンギットはずいぶん高く感じる。なぜかというと首都クアラルンプールから人気の観光地ペナンまでは約5時間程度だ。1時間程度短いとはいえ、30リンギット以下でもバスチケットは売られている。こっちは6時間で1時間ほど長いといえども、価格が20リンギットぐらい違う。ずいぶん金額が高いなと感じたが、クアラルンプール – ペナン間のような、多くの人々がたくさん利用するような路線と、こういう田舎の路線では、この価格の差は仕方がないことなのかもしれない。ちなみに、オンラインでチケットを購入すると、この47リンギット+システム利用料の7リンギットがかかる。利用料が追加でかかるとしても、事前に購入しておいたほうが安心感はある。バスのチケットを購入したあと、佑は広いバスターミナルを見て回った。広いバスターミナルとは合わないほどに、乗客や利用者の数は多くはなかった。朝食を食べる軽食屋があり、いくつかの人たちが朝ごはんを食べている。ご飯を食べているのは人間だけではない。軽食屋の店員があげているのだろう。猫もいる。働かないのにも飯や水をもらえるとは、よい身分だ。ご飯を食べて落ち着いた猫は、身繕いを始めた。どこに行こうと、猫はいる。バスのドライバーの声が聞こえる。サンダカン行きのバスへの乗り込みが始まった。サンダカン、それは、佑がずっと行きたかった場所であった。 サンダカンへの道は遠かった。朝早く出発するバスに乗り、6時間かけてじっくりサバ州の景色を見る予定であった。しかしその予定は当てが外れた。実際に見てみると、目に見える景色はパームオイルばかりだった。緑色の景色は悪くはないが、商業主義が目についた。美しい景色なんて言うものはほとんどなかった。朝8時から、午後2時くらいまで、同じ様な景色が続いた。強いていえば、マレーシア半島側のパームオイル農園を管理する企業と、サバ州内のパームオイル農園を管理する企業の名前や看板が少し違うだけだった。途中で、警察による検問があった。不法侵入者をチェックするポイントだ。通常は警察が、通行者のパスポートをチェックするポイントのはずだが、実際に警察がチェックしていたのはパスポートではなく、MySejahteraアプリを見て、ワクチンを接種しているかどうかを確認するだけだった。だから警察は、『ワクチンパスポート!ワクチンパスポート!』と言っていたのだ。パスポートよりも、ワクチン接種したかどうかに価値がおかれていた。佑は、世の中はよくわからない方向へ動いていると感じた。バスは一度だけ休憩した。ご飯休憩ではなく、10分程度のトイレ休憩だった。コタ・キナバル行きとサンダカン行きに枝分かれしている交差点を、右に回ったあとは、1時間ほどでサンダカンバスターミナルに着いた。まあ長い旅だった。サンダカンバスターミナルは、これも市内中心部から少し離れたところにあった。 バスターミナルは市内から離れていたが、そう遠くはなかった。タクシーアプリを使えば、5RM程度と安い値段で十分に行き来ができる範囲だ。まだ時間があったので、宿に向かう前に、佑は観光地であるアグネス・キースの家へ向かった。 アグネス・キースは米国人であり、イギリスの旦那さんがボルネオ島に赴任になった時に、同行して、そのままサンダカンに住んでいた。そのアグネス・キースが住んでいた家が観光地になっていた。ボルネオ島での暮らし、旧日本軍がサンダカンに来た時に勾留された時の内容を記載した小説が出版されている。実際に日本語での本の出版もされているようで、コタ・キナバルの書店で販売されているらしい。ただし、佑は戦争の歴史には興味があったが、この観光地よりも、この家に来る前に見えた海の景色に心を奪われていた。このアグネス・キースの家は丘の上にある。丘の上からの海の見える景色が、とても美しかった。これを見るために6時間かけてここに来たと言っても、何もおかしくはない、佑はそう思った。 すぐ隣には、English Tea House & Restaurantという有名なレストランがあった。バックパッカーの佑には似つかわしくなかったかもしれない。が、せっかく来たのだ。コーヒーを飲んでみたかった。よく見ると、欧米人の集団が近くのテーブルに座っていた。やっと観光業が始まったようにも見えた。懐かしい雰囲気だと思った。そういえば、昨日タワウのナイトマーケットで出会ったJohanは、ペナンに住んでいるオーストラリア人達と少し前に一緒に飲んだと言っていたのを佑は思い出した。もしかしたら彼らだったのかもしれない。丘の上から、何度も海を見た。サンダカンの海。海が見える街だ。美しい海岸線があるわけではない。丘の上から海が見える、それだけで、佑は胸が動いた。佑は、本日の宿のHotel Sandakanへ向かった。サンダカンは、漢字では、『山打根』と記載する。 日本人でも、サンダコンと読むことはできるだろう。そんなことを考えている間にHotel Sandakanに着いた。なぜかホテルに行ったら部屋が空いてなかったので、アップグレードして、ファミリールームになってしまった。泊まるのは佑1人しかいないのだが、ベッドが3つもある。 あまりにもアップグレードされすぎだと感じたが、不便はない。カーテンを開けたら、海が見えた。佑の心は華やいだ。ホテルのミネラルウォーターを飲み、かばんを置いて、サンダカンの街に出た。サンダカンの街は、タワウに比べて華やいでいた。広くはないが、狭い範囲に多くのお店が並んでおり、活気があった。サンダカンの商店の看板のデザインは、他国の有名なキャラクターを真似て流用したようなデザインの看板が多かった。日本のドラえもんや漫画のワンピース、映画のGhostbustersであるとか。海に向かうにつれて、更に街は活気づいてきた。Harbour Mallというショッピングモールが見えた。 田舎のショッピングモールに期待はしていなかった。しかし、その期待を裏切るものだった。Harbour Mall周辺は人が多く、ショッピングモール内も、きれいで多くのお店がモダンなものだった。活気あるショッピングモール内にいると、友人の言葉が思い出された。 佑は安心した。佑はあまり田舎が得意ではない。何もない場所は退屈にさせる。空白の時間ができることを、佑は嫌う。その意味では、佑は落ち着いた生活はできない性格だ。Harbour Mall周辺には市場があったが、夕方ではすでに多くのお店は閉まっていた。人が多く密集したこのエリアは、時に治安の悪さも感じさせた。狭い通り、ごみごみしたスーパーマーケット。佑はこういう雰囲気に離れているので、あまり気にならない。むしろ、こういう雰囲気のほうが佑にとってはある種の落ち着きを感じさせていた。 Fat Catというパン屋が、この狭いエリアに数店舗あることに気がついた。せっかくなので、どら焼きを買った。後で分かったが、Fat Catは、サンダカンに初めてできたパン屋の様で、多くの人々に利用されているらしい。実際食べてみると普通の味だが、地元の人の誇りであることはすぐに分かった。 ヒジャブを被っているとはいえ、フィリピンから来ている人も多い街のようだ。インドネシア人はマレー語を比較的近い発音で話せるようだが、フィリピン人はRの音に少し違いが出るようで、ローカルの人からすると分かるらしい。いろいろ散策をしていたら、だんだん夕陽の時間が近づいてきた。港街に来たからにはやっぱり夕日が見たかった。事前に調べていたが、Nak Hotelというホテルの最上階にRooftop Barがある。名前は、Balin Roofgarden Bistro & Bar。日が落ちるのは、夕方6時ぐらいだ。夕日を見るために目的の場所に行くときは、ハラハラする。間に合わせたいという想いは、旅人を焦らす。今は夕方5時半だ。少し足を早めよう。最初は違うバーに入ってしまった。問題ないとは思うが、サンダルでRooftop Barに入れるかどうかもはっきりしない。ぎりぎり間に合って着いたそのバーでは、少し夕日が落ちかけていた。ローカル中国系と思われる人達が、子供たちも含めて席を取ってみんなで写真撮影を楽しんでいた。確かにおしゃれなバーだから、写真スポットにもなるだろう。佑はお酒を頼んだ。この旅で最初のビールだ。暮れゆく夕日を眺めていると、あの歌が頭に出てくる。 僕はサンダカンにいるんだ。日が落ちた後のサンダカンを歩いてみる。夜の雰囲気はまた変わってくる。あれだけ人がいた街も、夜7時になると人の姿もめっきり減って、多くの店が閉まっていた。とはいえ、海沿いにあるレストランはまだ人が多くいたので、そんなに暗いわけではない。佑は海沿いのレストランでご飯を食べた。街中は人が少し減ったぐらいでそんなに雰囲気は変わらないが、なぜか夜遅くなると、先程の賑やかであったHarbour Mall周辺に、おばちゃん達がずらっと並んで椅子に座っていた。佑は何をしているのかと見てみると、女性達はタバコを売っている。近くによると、袋から、普段のお店では見れないようなブランドのタバコを売っていた。タワウにいた頃から気づいていたが、サバ州の人たちは、普通のコンビニエンスストアや商店で販売されているような、Dunhillのような正規のタバコを最初からあまり持っていない。飲食店のテーブルに置いてあるタバコを見ても、見慣れないようなブランドのものを吸っている。単純に政府管理されていない違法タバコということだ。しかし違法とはいえ、誰もが吸っている。この手のタバコは、マレーシア半島にもいくらでもある。政府の税収が下がることと、British American Tobaccoなどのタバコメーカーからすると儲からないという欠点はあるが。おばちゃんが声をかけてきたから、知らないふりをして話を聞いてみた。佑は忘れていた。この街でも英語は通じない。タバコを買わないかと言っているのは分かる。How...

サバ州旅行 熱風タワウ編

ほぼ定刻の9:30に、飛行機はタワウ空港に降り立った。 飛行機から見えた景色は、一面が緑だった。山の緑色だけではなく、ときおり等間隔に整列された木も見える。パームオイルの木だ。ここマレーシアでは、パームオイルの実から取れる油を輸出することが一大産業だ。ここタワウのあるサバ州だけではなく、他の州もどこでも、国土の多くの場所にパームオイルが植えられ、農園ができている。一度植えれば、あとは果実が育つのを待つだけだ。育った実を収穫するのは、破れたシャツを身にまとい、汗を流しながら刺又を手に持つ外国人労働者だ。暑いなか厳しい労働を行うのは、ローカルマレーシア人ではない。周辺国のインドネシアやフィリピンから、低収入でかき集められている。大きく育ちすぎたパームオイルの木は、焼かれ、また新たに新しい木を植えられる。その繰り返しだ。このマレーシアの大地の数十%はパームオイルに利用されている。飛行機が降下中に、古波蔵祐(こばくらたすく)は、そんな事を考えていた。飛行機は70%くらい席が埋まっていた。Covid19によるパンデミックが始まって以降、自由に旅行をすることはできなくなった。飛行機に乗ることも簡単ではなくなった。米国ファイザー社がコロナワクチンを開発して以降、世界中でワクチン接種が始まった。他の製薬企業も、その波に乗り遅れまいとワクチン開発を勧めた。ワクチン接種した者のみが、飛行機に乗ることができる。佑もワクチン接種した一人だ。佑だけではない、この飛行機に乗っている他の乗客もそうだ。 タワウ空港は小さな空港だ。乗客は飛行機から降ろされ、歩いて空港に入る。中に入るとスタッフが、マレーシアのコロナ追跡アプリケーションMySejahteraをチェックしてワクチン接種済かどうかのチェックをしている。空港スタッフはパスポートをチェックしているのではない。ワクチン接種済みかどうかのほうが重要のようだ。ちなみにサバ州は連邦政府から独立した行政権を持っており、外国人やマレーシアの他の州に住む人々は、サバ州入国時には入国審査を受けるようになっている。入国審査場に着くと、乗客のほとんどはローカルマレーシア人であり、外国人は佑だけだった。そのため佑だけは、外国人専用レーンに並ぶことになった。外国人専用レーンに並んでいるのは佑だけであった。しかしそれは、かえって良かった。外国人専用レーンには、他の人が全然並んでいないため、列に並んで待つ必要がなかった。実はサバ州に入る時の入国審査は少し不安があった。なぜかというと、マレーシアでは州によって入国の基準を自由に変えることができる。そしてCovid19のパンデミック以降は、州によって全く異なる入国基準を持っていることがある。サバ州もそのひとつだ。サバ州はマレーシアの中では最も国境を開けるのが遅かった。先月まではマレーシアにずっと居住している外国人すらも入る事が許されなかった。(なぜかローカルマレーシア人の入国は許可されていた)しかし今月に入ってからマレーシアに住む外国人も入国を許可された。そして入国時にCovid検査は必要ないということに変わったという記事がでてきた。しかしそれが実際にそうなっているのかどうかは実際に来てみないと分からない。そのため、佑は事前にサバ州のツーリズムデスクに問い合わせをしていた。サバ州のツーリズムデスクに聞いたとおりに手続きを行っていれば、入国は問題ないはずだ。誰かが言っていたとか、新聞で記事を見たとかでははっきりしないが、サバ州のツーリズムデスクが言ったことに沿って行動をしていれば、例え問題が起きて入国拒否されても、戦える材料はある。ツーリズムデスクからの回答はたったひとつだった。サバ州のウェブサイトから、入国の申請をしてください。それだけだった。実際に入国審査は非常にスムーズだった。2,3分程度で終わった。全く問題なく入国ができた。やっとサバ州に入ることができた。そう感じた。実際にはおそらく業務としては、飛行機でクアラルンプールから出発する前にすでにチェックが行われていたと感じた。実際に入国時に問題がありそうであれば、飛ぶ前に拒否されていると思った。なぜならばAirAsiaの航空券は、スマートフォンのアプリ上に保存されていた。本来はわざわざカウンターで、航空券をプリントアウトする必要はなかった。しかし、空港のスタッフから、『サバ州の場合は、空港のカウンターの方でチェックをした上、あえてプリントアウトする必要がある』と言われた。その時はめんどうなものだ、と感じたが、おそらくその際にチェックをされてたんだと思われる。この乗客はワクチン接種済みであるかどうか?、サバ州入国可能であるかどうか?。どちらにせよずっと入りたかったサバ州タワウに、佑は入ることができた。入国審査を終えて、やっと入れたその空港は小さかった。荷物は小さなバックパックだけだ。佑は、数日だろうが数ヶ月だろうと、小さなバックパックだけで旅行をする。荷物受け取りにも並ばずに、すぐに空港の出口に向かった。いつものわくわくする瞬間が戻ってきた。ゲート出ればそこは、もうタワウだ。初めて来る場所。懐かしいこの感じ。パンデミック前はどれだけこの感覚を味わっただろう。2年近くこういう感覚が味わえなかった。懐かしい雰囲気だ。ゲート前には多くのタクシードライバーが旅人を待ち構えている。到着して家族と出会っている乗客もたくさんいた。 タワウ空港からタワウの街へは便数は少ないが、バスがあると聞いていた。しかし実際に来てみると、もうバスはなくなっていた。おそらくパンデミックの影響で、バスは運行を取りやめてしまったのだろう。観光客が来ないならば、しかたないだろう。空港周辺で何人かに聞いてみたが、やはりバスは無いようだった。佑はスマートフォンを手に取り、Grabアプリを開いた。タワウ空港からタワウの街まで約30キロ程度だ。ドライバーはすぐに見つかった。さぁ行こう。久々の旅が始まる。ドライバーは無口な男だった。空港から街まで、この田舎の風景を見ながら向かった。緑とパームオイル、その景色の中心には、道が一本だけある。それが目に入る景色だった。ドライバーは無口な男だったが、街に近づくにつれて話を始めた。少し前まで、サバ州の州都コタ・キナバルで働いてたようだ。そして故郷のタワウに戻ってきたが、賃金はもう本当にタワウは安くて、この街は本当に何もない。そう言っていた。話をしていて思ったが、あまり英語が上手ではなかった。このタワウはマレーシアの首都クアラルンプールから最も遠い場所にある街だ。 ホテルに着いた。Marco Polo Hotelと言う比較的大きなホテルで、地元では有名なホテルのようだ。確かにホテルの外観はなかなか良い。しかし、中はすごく古めかしかった。ホテルの部屋もソファーのカバーもベッドのシーツもいまいち余りきれいとは言えなかった。しかしホテルのスタッフはとてもホスピタリティがあってフレンドリーだった。チェックインを済ませ落ち着いた後、外に出た。明日の朝早く、サンダカンに旅立つので、バスチケットを買う必要があった。そのため、ホテルスタッフに事前に聞いていた、バスターミナルに向かった。小さなバスターミナルの周辺はすごくごみごみしていた。バスターミナルはまとまりがなく、どこに何があるかさっぱり分からなかった。受付場所も、看板もない以上、座っているドライバーらしき人に聞くしかない。タワウに来て気づいたが、多くの人は、マレーシア半島のように英語が堪能ではない。ドライバーらしき男も、そのうちの一人だった。 『明日の朝サンダカンに行きたいんだが、どこでチケットを買えるんだ?』 『マレー語は話せるか?』 『Satu Satu Dua Dua Jalan Jalan Makanだけだ』 佑もドライバーも両方困った。ドライバーは、ちょっと待ってくれとジェスチャーをし、知り合いに電話連絡をしてくれた。何がどれだけ伝わっているのか分からなかったが、まだ急がないといけない時間ではない。任せてみた。 『知り合いから直接連絡をさせるので、連絡先を教えてくれ』 佑は連絡先を交換した。 タワウの街は、ローカルマレーシア人と、インドネシアのスラウェシ島からやってくるBugisという民族が多く居住している街だ。そういえば、佑が昔スラウェシ島のマカッサルに行った時に、この島にはBugisという民族がいて、その民族はお金持ちが多いという話を聞いたことがあった。佑は、過去に聞いたことがある話の答え合わせをしているような気分だった。面白いのは街の商店の看板だ。マレー語では商店のことを、KEDAIと言うが、インドネシアでは商店のことを、TOKOという。ここはマレーシアなので本来はKEDAI○○という看板しかないはずだが、ここタワウにはTOKO○○やKEDAI○○と両方のお店があり、並んで立っている非常にユニークな光景が見えた。 しかしここは国境の街でもあって、フィリピンにも近い。結構多くの人がタバコを吸っていた。佑はタバコは吸わないが、旅に出ている時はたまにタバコを吸うことがある。小さな商店でタバコを一本だけ買う時に、近くにいるローカルマレーシア人かインドネシア人かどうか分からない男に聞いてみた。 『何のタバコを吸っているの?何か見た事ないタバコだね』 『あぁ、これはフィリピンのタバコだね』 なるほど、文化が混ざっているのだ、このタワウの街は。マレーシア、インドネシア、フィリピンの、それぞれの文化のいいとこ取りをしているのだ。タワウの街のすぐ近くに、Sebatik島というところがあるようだ。この旅の途中、佑は何人かにその島の名前を聞かれた。その島に渡れば、すぐにインドネシアの国境に行けるようだ。パンデミック前は、インドネシア人も普通にイミグレを通過せずに、船でタワウに入ったりしていたようだ。しかし、さすがにパンデミック中は、国境の警備隊が監視しているようでそれはできなくなっているようだ。つまり、不法入国は誰も気にしないが、コロナの蔓延は良くないということなのだろう。まぁ、別にそんな気にするような大きな話ではない。佑は少しお腹が減っていた。地元の人で賑わっている、少しおしゃれなお店に入ってみた。とはいえ、ぶらりと入っていったわけではない。佑は事前に食べたい店を調べている。計画的だ。家を設計をする時は、設計士は、2度木を切っていると聞いたことがある。一度目は設計時に、二度目は実際に木を切るときだ。それとよく似ている。佑もすでに、計画時に一度店を訪れている。インドネシアといえばアボガドジュースだ。昔何度もインドネシアを訪問した際に、インドネシアのアボガドジュースは安くて美味しいことを知っている。待てよ、ここはマレーシアだぞ、インドネシアではない。なぜ佑は、ここがインドネシアだと思っているのだ。 佑がタワウにきた理由の1つとして、このタワウは数百人の日本人が約100年ぐらい前に住んでいたこともある。戦前の日本の資本家がタワウにやってきて、ゴムの農園などを開拓していた。その資本家が出資した農園で働くローカルの人が、当時たくさんいた。その時の名残がこのタワウには通りの名前として残っている。その1つが街の中心を貫く大きな通りの1つ、Jalan Kuharaだ。現在はもう名前しか残っていないだが、ローカルの人は日本人の名前だということを知っていた。佑は看板以外に何もないことが分かっていても、その通りを見てみたかった。タクシーを使うには短すぎた。佑は歩くことを選んだ。Jalan Kuharaの次はJalan Dr Yamamotoだ。これは農園で働く医師の名前が山本だったようだ。おそらく農園で働いていた昔の人達が何か病気があった時に山本に会いに行こう!そうなっていたようだ。 次は、Jalan Nissan Nourinだ。日産自動車の母体となる会社の一つがここにあったようだ。ゴム農林を経営していたらしい。そして最後の一つは、Jalan Kubota。ここは非常に大きかった。通りの名前だけでなく、若い人で賑わう広場そのものにKubotaの名前が付けられていた。Kubota Squareだ。Kubota Sentralもあった。今風のおしゃれなカフェやレストランがあったり、オフィスタワーもあった。紛れもなく、ここはタワウの中心地であった。 佑も、これはさすがにびっくりした。100年も前にこの地に日本人がいて、その歴史は未だに残っていた。名前だけだけども。 WhatsAppに、見知らぬ番号から連絡が入っていた。Weiganと名乗る男だった。マレー語のメッセージが届いていた。あのバスのドライバーの件だろう。佑は英語で返したが、数分後、こう返信が届いた。 『英語が分からないので、マレー語で頼む』 佑が翻訳して、返信をする。すぐにマレー語で返信が届いた。 『サンダカンまでのチャーターが可能だ。私は信頼できるドライバーだ。片道450RMでどうだ』 佑は呆れと怒りが混じった感情に囚われ、メッセージを見た瞬間に返信した。...

HSBCクレジットカードをお勧めしない理由。空港ラウンジサービスの貧弱さと付帯旅行保険の削除

皆さんクレジットカードを持っていると思うんですよね。外国人は基本的にクレジットカードを作るのが難しいため、母国で作成したカードをそのまま利用しているケースも多いでしょう。僕も居住しているマレーシアでクレジットカードを作りたかったのですが、なかなか作るのが手間だったりしてたのですが、ようやくカードが届きました。正確に言うと、数年前に普通に作る機会があったのですが、僕が断っちゃったんですよね。 『僕はクレジットカードを使うことがあまり好きではありません。現金を使うほうが良いので、今回は必要ありません』と。 あれが大失敗でしたね。あれで数年間無駄な時間を過ごした。今まではデビットカードばかり使ってましたが、どう考えてもクレジットカードは便利なんですよ。Lazadaでオンラインショッピングをしたりいろいろと。例えそのうち、Alipayなどのスマートフォンを利用した決済が普及しても、クレジットカードは必要な状態は続くでしょう。ということで、再度クレジットカードを申請して、届いたHSBCのクレジットカードの付帯サービスを確認していました。いろいろ確認した結果、付帯するサービス内容があまり良くなかった気がします。そのため、来年は別のクレジットカードを申し込もうかなとも思っています。せっかくHSBC Premier Credit Cardの内容について約款を読んだりといろいろ調べていましたので、それらをまとめてみました。個人的にも、空港のラウンジサービスやクレジットカードのサービス内容について詳しくなった気がしています。 なお、同じHSBC のクレジットカードでも、国が違えば内容が違うことも多いと思われます。ですので、本記事はあくまでマレーシアのHSBCに関する記事です。 目次【本記事の内容】 1.HSBC Premier Credit Cardをオススメしない理由  1-1.HSBC Premier Travel Credit CardとHSBC Premier World Credit Cardの比較  1-2.空港ラウンジサービスの違い  1-3.海外旅行保険の付帯サービスが削除  1-4.他の銀行との比較  1-5.結論 2.まとめ     HSBC Premier Credit Cardをオススメしない理由   HSBC Premier Travel Credit CardとHSBC Premier World...

中華系マレーシア人との結婚を考え直した理由

          青空に線を引くひこうき雲の白さはずっとどこまでも ずっと続いてく明日を知ってたみたい 胸で浅く息をしてた熱い頬 さました風も おぼえてる             2年少し前に、何度も何度も、何度も何度も聞いていた歌を思い出した。僕が一言言葉を発したあの時に、一瞬で雰囲気が変わったあの瞬間のことは、今でもよく覚えている。何かがガラガラと崩れていくような、見えているものが見えていないような、聞こえている音もうまく聞こえていないような。何かが終わったのは分かっていた。あまり空気が吸えなかった。浅く息をしてた。あの時以降の、数十分間程度の記憶は今でもない。       さて、たった2日間くらいで公開中止にしたブログは、以前からたまに、『あの記事を読みました』と言われることがあった。公開していた期間は短かったのに、あの記事を読んだ人がそんなにいたのかと驚かされることが多かった。あれからずいぶん経った。久しぶりに読み直したが、文章にまとまりがないと感じた。実は一年前にとある事が起こって、一つの答えを自分の中で見つけた気がした。今ならもっと客観的に書ける、そう感じた。そして、この内容の記事を必要としている人は、実は大変多いことも知っている。マレーシアに限った話ではない。世界中のどこでも通用する話だと思う。2年以上前の当時の文章で使えるものはそのまま残しつつ、現在のことも引用として補足したいと思う。     結婚を考えていて、指輪も買っていました。コロナウィルスによるマレーシアの都市封鎖がなければ、すでに大使館などに婚姻書類を提出していたでしょう。ですが、結婚を中止にしました………………なんていう経験をした人はそう多くはないでしょう。   僕は日本人ですが、昔マレーシア国内で、中華系マレーシア人の女性と1年近く付き合っていました。お互い結婚する予定でした。マレーシア国内で在住日本人がローカルマレーシア人と結婚する場合は、まず日本大使館に行く事になります。その後、マレーシア国の結婚機関に申請することになります。結婚の申請をするために、すでに日本から戸籍謄本も取り寄せていました。そんな中、2020年にコロナウィルスによるロックダウンが始まったことで、外出もできず、大使館も一時閉鎖になりました。もしロックダウンがなければ、おそらく私たちは日本大使館に書類を申請していたでしょう。結局、ロックダウン中に、いろいろ考え直したことで別れました。仲も良かったのですが、そのような中でどうして結婚を辞めたかは、彼女が私に出会う前に不動産を購入していたことに起因します。そして、もっと重要だったことは、そのこと(不動産)について、お互いにじっくりと話し合うことができなかったことです。今思い返せば、根本的な原因は不動産ではなく、出てきた問題に対して、お互い冷静に話し合うことができなかったことが、僕が彼女に対しての信頼をできなくなったことでした。主な不動産の問題をリストにすると下記になります   彼女が数年前に不動産を購入したが、実際に住宅ローンを支払い続ける資力がなかった(ローカル友人や同僚に確認したが、明らかに彼女の給与で支払える範囲を超えていた) 私は彼女の住宅ローンを支払うことはできた。でも名義は彼女100%。なにそれ?危なくない?もしも離婚したら、私どうなるの?なぜ私の名義でない住宅のローンを払うんだよ? その彼女の購入していた不動産自体が、私がお金を支払う先として全く興味を持てなかった(私は日本にて、不動産物件を自分で購入・賃貸・売却の経験があるため、少しは不動産に対する知識があった。彼女は私に出会う前に不動産を購入していたため、私はその物件に関しては何も知らない。家を購入していたという話だけは以前から聞いていたが、詳細は聞いていなかった) 不便な場所にある。他の友人の意見でも、とても毎日居住して会社に通勤できる場所ではなかった   ということで、当時はどうするべきかをいろいろ考えていました。その際に本当に多くの友人や同僚からいろいろな意見を聞きました。それらはほとんど傾聴に値する意見でした。基本的には自分の思考を整理したいという意図が主だったのですが、こういう情報が必要なケースに直面している人もいたりするでしょう。そのため、とりあえずブログに残しておくことにしました。なお、おそらくこのケースは、そんなに珍しいものではないと思います。マレーシアでは非常によくあるケースだと思いますし、似たようなケースはアジア中にあるでしょう。いや、国際結婚の場合は、どこの国だろうと、この問題は避けて通れないのではないかと思います。   なお、この記事を残す理由は、下記の2つである。 起こったことを正確に整理する 後世の他の方々のために残しておく     目次【本記事の内容】 問題の不動産情報...

マレーシアの租税回避地 ラブアン島観光

さて、ラブアンという島に行ってきました。旧日本軍占領時代は、『前田島』と島の名前を変えさせられていた場所です。ボルネオ島に浮かぶ小さな島ですが、現在ではダイビングで沈没船を見れるところであるとか、お金持ちの人が節税のためにオフショア口座を作るタックスヘイブン島としても有名です。昔はブルネイ王国の一部でもあったことと、ブルネイとも距離が近いので、現地ローカルからすると、自分たちはマレーシアよりもブルネイに親近感を覚えているとも多いかもしれません。実際にボルネオ島の人びとは、マレーシアから独立したい!とか、マレーシア国内に住んでいるにも関わらず、『私達はマレーシア人ではない。サバ人です』とはっきり言う人もいます。マレーシア人の人からすると、『ラブアン何もない』という人も多いですが、日本人からすると、戦争の歴史もあり、比較的見るべきものは多いのではないかと思います。       目次【本記事の内容】 1.ラブアン島とは  1-1.夜着  1-2.免税店  1-3.フェリー乗り場  1-4.Labuan Square(ラブアン広場)  1-5.Labuan Museum(ラブアン博物館)  1-6.Labuan IBFC(ラブアンオフショア金融センター)  1-7.An’Nur Jamek Mosque  1-8.Labuan Marine Museum(ラブアン海洋博物館)  1-9.Botanical Garden(ラブアン植物園) – 日本人墓地  1-10.World War II Memorial Labuan War Cemetery(ラブアン戦没者墓地)  1-11.Patau-patau Water Village(水上集落)  1-12.Chimney Museum  1-13.Surrender Point(日本軍降伏地点)  1-14.Layang-layang Beach...