詩人・金子光晴が滞在した旧日本人クラブがある街 バトゥ・パハ観光

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バトパハの街には、まず密林から放たれたこころの明るさがあった。井桁にぬけた街すじの、袋小路も由緒もないこの新開の街は、赤甍と、漆喰の軒廊(カキ・ルマ)のある家々でつゞいている。森や海からの風は、自由自在にこの街を吹きぬけてゆき、ひりつく緑や、粗暴な精力が街をとりかこんで、うち負かされることなく森々と繁っている。

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まるで、[ 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。 ]という川端康成の雪国を思い起こさせるような一文。

 

もっとも、このような100年前の時代とは違う。金子光晴の時代のように、船でムアルからバトゥ・パハに行くことはまずない。街も大きくなっている。密林などはない。現代ではみんなバトゥ・パハにはバスで移動する。

バスが通る道は、すでにきれいな道路が敷かれており、住居が立ち並んでいる。ココナッツの木、たまにパームオイルの木が立っている。なぜ農園でもないところにパームオイルの木があるのか不思議な気分にはなる。パームオイルはもともとマレーシアにはない木である。アフリカ原産だったはず。住民や誰かがオイルを利用するためにパームオイルの木を植えたのだろうか。

そんなことを考えながら、バスは、バトゥ・パハ市内にたどり着く。

 

バトゥ・パハは62%が中華系、マレー系が36%と中華系がマジョリティを占めている。バトゥ・パハという名前は、『岩を彫る』という意味がある。1500年代に、シャム人(タイ人)がバトゥ・パハに侵略してきた際に、マラッカ軍を打ちのめしますが、そのシャム人が、水を得るために海岸沿いの村で岩を削っていたという逸話がある。

現在はバトゥ・パハの街は30万人を超える人口があり、多国籍企業の製造業などが盛ん。富士通、ミツミや、今は台湾企業のシャープの工場などがある。また、ゴム・パームオイル農園なども同じように重要な産業になっている。

 

しかし、バトゥ・パハ。正直、誰がこんなところに観光で来るんだよ、という感じの街ではある。

クアラルンプールのTBS長距離バスステーションより3時間30分かけてやってきた。

可もなく不可もなくといった感じの椅子。

 

バスターミナルには朝に着いた。バスに揺られたが、気持ちの良い朝だった。

バスターミナルには人が溢れる。行先は、ほとんどクアラルンプール往復かジョホールバル往復に限られている。

バスターミナルの場所はこちら。

 

約100年前に、日本人のビジネスマンが50人程度住んでいたのがこのバトゥ・パハ。

戦前ですが、当時この街はゴム園などで栄えていたようで、日本人がゴム園を経営して、ローカル華人やマレーシア人を雇っていたようです。当時からシンガポールなどでは、華人による反日運動はあったようですが、バトゥ・パハにおいては、日本人がビジネスとして金を持ってきているので、大事な金主として、反日運動などは抑えられてたようです。

 

 

 

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カユ・アピアピは、馬来語で、カユは木、アピは火、炎の木という意。水にちかく枝を張るこの木をこのんで、夜になると蛍が集まる。蛍火の明滅で、枝なりに梢が燃えているようにみえるので、その名があるのだという。

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この燃える木というのは蛍のことだが、夜は滞在していなかったのでさすがに見ることはできなかった。最も100年前とは違い、現在では既に市街地なので夜になっても蛍がいるかどうかは分からないが・・・。

 

大きなストリートアート。ジョホール州の旗が描かれている。

 

市場。朝は活気があります。

 

街並みも意外とビルがたくさんありますね。

 

 




 

バトゥ・パハ観光

 

旧日本人クラブ

 

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そのバトパハ河にそい、ムアにわたる渡船場のまえの日本人クラブの三階に私は、旅装をとき、しばらく逗留することになった。ゴム園にゆくにも、鉄山を訪ねるにも、ここは重要な足がかりである。山から出てきた人達はここに宿泊し、相談ごとに寄合ったり、撞球をしたりする。夜は、早便でここへつく日本の新聞をよむために事務所の洋燈ランプのしたにあつまる街の人たちもあった。

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旧日本人クラブの建物。古びているが、威厳を感じさせる立派な建物ですね。100年ほど前に、日本人がこの建物の3階を日本人クラブとして借りていたものです。ローカルの人はこのことを知っているのでしょうかね?

 

 

下記の写真のように、建物の2階部分が歩道へせり出して、いくつかの等間隔の柱があり、1階部分の歩道を覆う屋根のようになっていますが、これはマレーシアでもシンガポールでもよく見られる中国南方の建築様式で、詩人・金子光春も軒廊(カキルマ)と呼んでいた。

 

私が住んでいるマレーシアではどこにでもある見慣れたものです。スコールが降っても、雨を避けながら移動することができます。

 

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南洋の部落のどこのはずれへいってもみうけられる支那人の珈琲店がこの河岸の軒廊のはずれにもあった。その店に坐って私は、毎朝、芭蕉ピーサン二本と、ざらめ砂糖と牛酪バタをぬったロッテ(麺麭)一片、珈琲一杯の簡単な朝の食事をとることにきめていた。これらの珈琲店は、支那本土の茶舗の役目をしていて、休息して汗をぬぐうたり、人を待って商談をしたりするのに利用されている。

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ロティとコーヒーは今でも同じですね。100年経っても朝食の営みはあまり変わっていないようです。旧日本人クラブの建物に、一つだけ中華系のコーヒー屋があります。繁盛しているようです。

 

さて、せっかくバトゥ・パハに来たのに、旧日本人クラブの建物が見れなかったということになるともったいないので、場所を記しておきましょう。このあたりです。この会社?を検索すれば、場所がわかるでしょう。

 

Si Hai Long Wang Temple 四海龙王大伯公庙

これが唯一の観光地といったくらいかな。。。道教寺院ですが、オブジェも多く、川も見れます。カップルの場所でもあるようですね。

 

 

Penggaram Square Batu Pahat

バトゥ・パハという名前は、『岩を掘る』という意味がありますが、その起源をもよおしたオブジェが建てられています。ハリラヤや旧正月などの祝日に街でフェスティバルが行われるときは、この公園で行われるようです。

 

 

Ah See Wan Tan Mee

ちょっと水分が多めのドライワンタンミーでしたが、町一番の人気店であるだけ、味は美味い。ぜひ、バトゥ・パハに立ち寄ったらこのワンタンミーを食べてほしい。

 

 

まとめ

バトゥ・パハの観光と詩人・金子光晴も滞在した旧日本人クラブについて記載してみました。

観光する場所は少ないのですが、日本人からすると、100年ほど前の戦前に日本人がこちらに住んでビジネスをしていたという郷愁を感じましたね。

よくそんな昔に、日本人が外に出ていたのだなぁと思います。

現在の旧日本人クラブの建物は、いくつかのローカルの会社がそのまま利用していて、建物自体には名前もついていないようです。日本人クラブとは、いわゆる現在の世界の各都市にある『日本人会』と同じようなものではないかと思います。

 

栄枯盛衰も感じますね。栄えた者がいつまでも栄え続けることはなく、いつか衰える時もある。

 

さて、実際にバトゥ・パハを訪れた日本人は結構いるようで、ブログに記載されている方も多いようです。その中でも下記のブログは心地よい爽やかな文体で描かれています。

金子光晴の愛した町で詩人気分 (マレーシア)

 

東南アジアに住んでいない方が、わざわざバトゥ・パハを訪れる事はあまりないと思いますが、ジョホールに立ち寄る用事がある方は、足を運んでみてもいかがでしょうか。

 

ではでは。



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