戦場にかける橋で有名 死の鉄道 カンチャナブリー観光

カンチャナブリーは日本人にも知られている街だと思うのですが、バンコクに旅行に来た日本人がわざわざ来るケースは少ない気もします。タイは楽しい国だと思うのですが、戦争で日本軍が現地人に対して酷いことをしたという負の側面も持っています。

同じ楽しく旅行をするにせよ、負の側面を知った上で現地の人と関わるのとそうでないのでは、他国に対するリスペクトにも大きな違いがあることでしょう。

 

そのためにもお勧めなのが、カンチャナブリーです。

 

 




 

カンチャナブリー基本情報

 

どこにあるの?場所・地図

タイの首都バンコクの西側です。泰緬鉄道の名があるとおり、ミャンマー国境に近い。

 

どんな街?概要

カンチャナブリーは人口30000人程度の小さな町です。バンコクから西へ120m。18世紀に、ラマ一世によりビルマからの攻撃に備えるために街が作られた。ラマ三世の時代に、16kmほど東南方向へ街を移動させた。1942年に、カンチャナブリーは日本軍の支配下に置かれた。連合軍とアジア人を無理やりこき使った。悪名高き泰緬鉄道、別名死の鉄道である。415kmもの泰とミャンマーをつなぐ鉄道は、大日本帝国軍によって作られた。が、約半数の労働者が病気や虐待などで亡くなった。カンチャナブリーには、いくつかの記念館がある。なお、この鉄道は、1947年に閉鎖された。(いくつかの路線は開通して現在も利用されている。)

東南アジア人の人々は180000人~250000人の人が奴隷のようにこき使われた。彼らはRomusya(労務者)と呼ばれた。また、61000人もの連合軍も奴隷のように働かされた。東南アジアの人からは、90000人が亡くなり、連合軍兵士からは12000人を超える人が亡くなった。

泰緬鉄道に関しては、英国軍の調査により、ジャングルや多くの川の分岐があり、建設は非常に難しいということが分かっていた。ビルマを英国軍から奪還し占領した日本軍は、ミッドウェイ海戦で負けたことにより、早急に陸路の輸送路を確保する必要に迫られた。それが泰緬鉄道の始まりである。インドネシアやマレーシアやシンガポールからも数多くの労働者が連行された。特にマレーシアからはタミル人が多かった。

現在では、クウェー川鉄橋が観光地となっている。

 

なおこの死の鉄道に関しては、いくつか映画になっている。

 

戦場にかける橋

 

レイルウェイ 運命の旅路

これは実話に基づく映画であり、イギリス人将校ローマクスと旧日本人将校永瀬隆の和解の物語

 

 

 

カンチャナブリーの観光について

基本的には、死の鉄道関連のものばかりかと思われます。

 

お勧めスポット

 

クウェー川鉄橋(The Bridge Over River Kwai)

メコン川にかけられた橋。9つの曲がったトラス構造になっている。過去の歴史もあるが、現地タイ人もみんなで楽しく写真を取る場所になっている。

捕虜となったアメリカ人が旧日本軍によって無理やり働かせられ、356人が亡くなったと記載がある。その記念碑。

 

 

 

 

 

連合軍共同墓地(The kancbanaburi Allied War Cemetery)

泰緬鉄道で亡くなった戦争捕虜被害者の為のメインの墓。ちなみに戦争捕虜のことを、Prisoner of Warの略で、POWといいます。コモンウェルス戦争墓地委員会がデザインをしている。6982名の遺体が埋められている。主にオーストラリア人、イギリス人、オランダ人である。ちなみに、コモンウェルス戦争墓地委員会とは、第一次・第二次世界大戦においてイギリス連邦の軍役に就いた戦死者の墓地に関する管理を目的に、イギリス、インド、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、南アフリカの6か国で構成される政府間組織である

 

 

 

泰緬鉄道博物館(Thailand Burma Railway Centre)

泰緬鉄道の歴史に精通した個人のオーストラリア人が寄付と経営を行っている博物館。

 

 

カンチャナブリー慰霊塔(Kanchanaburi Memorial Monument)

アジアにはよくある慰霊塔。日本人の誰かが(多くの場合は現地の日本人会)設立した、「もうこんなことはいたしません。安らかに・・」という慰霊碑。

 

 

JEATH戦争博物館(The JEATH War Museum)

死の鉄道に関連した博物館。タイの個人の人が1977年に設立したとの事。JEATHというのは、Japanese, English, Australian, American, Thai and Hollandの略のようだ。

戦争捕虜たちは休日もなしに1日に16時間働かなくてはならなかった。彼らには1年にたった1度の休暇があった、つまりその休暇とは、日本の天皇誕生日だった。初期症状程度のマラリアにかかった人でも、捕虜たちはどんな例外も無く強制的に働かされた。彼らは熱がさらに酷くなり、意識不明で倒れるまで働かなければならなかった。第二次世界大戦中にカンチャナブリで死の鉄道を建設をしていた戦争捕虜たちにとって、仕事場から運び出されることは、一時の休息を意味していた。

「死の鉄道」の建設は、1943年の8月に完了し、同年の10月25日に実用化された。それは日本軍の偉業であったが、偶然にも戦争捕虜となった同胞の人達の苦しみの上に築かれたものでもあった。その苦しみとは、計り知れないほどの強い権力欲を持っていた一握りの人達が同じ人間としての仲間に対していかなる慈悲をも示さなかったことから生じていた。

 

永瀬隆氏の銅像

JEATH戦争博物館の敷地内にある。戦争犯罪人と通訳者の顔を持つ岡山県倉敷市出身の人。東京のアメリカンカレッジで英語を学んだ後、死の鉄道建設の仕事に赴いた。戦争終了後、戦争捕虜被害者の遺体を調べる調査員の一人になり、一生を社会的な活動にささげた。タイで仏教の僧侶となり、日本軍による捕虜の扱いを償った。その後、クウェー川平和財団を立ち上げ、カンチャナブリ周辺の恵まれない子供たちに対して奨学金を与えた。戦時中に捕虜収容所で尋問をしたイギリス陸軍将校のEric Lomaxと和解したことで注目を集めた。

 

カンチャナブリーへの行き方・アクセス

バンコクからバスで行く以外の方法はあまり無いと思われるかな。バンコク南バスターミナルから3時間程度。

 

モデルコース

主な観光地は、街中に固まって集まっている。暑いだろうが、歩いてみて回ることもできないことも無い。観光のために、タクシーと面倒な交渉をすることもあまり無いだろう。

 

まとめ

お勧めの観光地として、

  • クウェー川鉄橋(The Bridge Over River Kwai)
  • 連合軍共同墓地(The kancbanaburi Allied War Cemetery)
  • 泰緬鉄道博物館(Thailand Burma Railway Centre)
  • カンチャナブリー慰霊塔(Kanchanaburi Memorial Monument)
  • JEATH戦争博物館(The JEATH War Museum)
  • 永瀬隆氏の銅像

を上げてみました。

 

現地は暑いので、外にある石碑などを落ち着いて読むことなど難しいですよね。なので僕が観光をしたときも、ただ見て回るだけで終わったことも多かったです。

一度帰ってから、じっくり歴史を読み通すと、知らなかった事実がいろいろ浮かび上がってきますね。

カンチャナブリー、やっぱり一度行ってみることをお勧めします。

 

ではでは。




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